水恋

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 8月も終わりに近づいてきたころ。
 越前谷家の母屋で、克己は成之と向かいあっていた。
 成之の学校の宿題を見てやっているのだ。風鈴が揺れる下、卓袱台に問題集を広げていた。

 成之は早百合の息子で、秀乃の弟にあたるが、兄弟の歳は離れていて十も違う。ゆえに成之は、秀乃よりも歳が近い克己のほうになついているようだった。

 また、秀乃は当主としての仕事で忙しいが、克己は昼間ならば自由時間がある。おまけに、早百合とのこともあって他の娼妓より、母屋に顔を出すことが多い。

 父親もいない成之が、克己のことを好くのも必然だったのかもしれない。

「なぁ、克己ー、克己はどうして学校にいかないの? 」

 自分も昔、秀乃に勉強を教えてもらっていたな、と克己が思い出したときだった。ふと、成之がそんなことをたずねてきたのは。

(愚問を……)

 分かりきったことを聞くものだ、と呆れたが、本心はおくびにも出さず柔和な微笑みと共に教えてやった。

「戸籍を持っていないからですよ」

 そう言ってやっても、成之はぽかん、とした表情だ。シャープペン片手に固まっている。

「えー? どおして?」

 どうして戸籍がないの、と成之はさらに問いかけてきた。

「必要がないからです」
「ひつよう……?」
「ええ、俺は四季彩の外に出る必要がありませんから、届け出をしなかったそうなのです」
「そうなん……??」

 成之は納得できないような面持ちだ。首をかしげ、唇をとがらせている。克己は苦笑しつつも、成之の開いているページに触れた。

「……さあ、早く終わらせてしまいましょう。お母様が、おやつを用意して下さっていますよ」

 克己の言葉に頷き、ふたたび問題を解きはじめる成之は素直で良い子だ。それゆえに一抹の不安も感じる克己だった。越前谷の仕事はまっさらな心ではやっていけない。歪み、狂気を抱き、変態性癖を嗜好するくらいではないといけない。

 秀乃はいまの成之と同じ年頃のときに、通う学校のウサギを惨殺したり、同性愛に目覚め姦淫も繰り返していた。

 血を分けた兄弟といえど、秀乃のほうが当主の素質に優れているのだろう。

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「……克己」

 居間で早百合と成之と、お茶を楽しんだ後。
 遊郭に帰ろうと、廊下を歩いていたところを呼び止められる。

「那智様」

 成之や、秀乃の従兄弟にあたる那智はいつも麗しい。体の性別は男性なのだが、装いは女性的であることが多い。

 今日も女物の着物を身につけ、那智の趣味であるエスニックなアクセサリーと合わせていた。手首にはじゃらじゃらといくつものブレスレットがはまり、ブラウンの長い髪を高い位置で結わえている。

「おはようございます。今日も美しいですね」
「克己こそ。ねえ、ちょっと、おいで……」

 マニキュアを塗った長い爪で手招きされた。克己は早く自室に戻って仕事の準備をしたいと思っていたが、おとなしく従う。

 幸い、那智は立ち話をしたいだけらしい。どこかの部屋に連れて行かれるということはなかった。四季彩と母屋をつなぐ渡り廊下で立ち止まり、夏の日本庭園を眺めながら口を開く。

「水蓮とはうまくやっているの?」

 うまく、とはどういうことなのだろう。月に一度の交配なら滞りなく行っている。不遜な態度を貫く彼女の思惑は測りかねるし、内心は少しも理解できないのだが。

「ええ、順調に行っていますよ」

 心は全く通っていないが、肉体をつなぐ関係においては着実に任務を遂行している。だから克己はそう答えた。

「本当? 良かった。最初から、克己なら、きちんと仕事をしてくれることは分かりきっていたけれど」
「ありがとうございます、那智様」
「それで、克己はなにか……変わった?」

 秀乃によく似た顔は尋ねてくる。克己はいよいよ、返答に困った。

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「恋愛ごとを禁じておいて矛盾しているのは、わかっているのだけどね」

 長い髪を指先で弄りながら、那智は切りだす。

「娼妓のお仕事は、恋もそうだし、ほかにも様々な感情……を知らなければ、極められないの。疑似恋愛といえど、お客様とより感情を通わせることができるでしょう? お客様の気持ちも汲み取ることができる」
「……なにを仰りたいのですか」

 克己は表情こそ平静を装っていたが、内心では怪訝に感じる。
 那智は指を、そんな克己の頬に伸ばした。

「克己は完璧すぎて──……冷たくて、機械的。もうすこし人間味があってもいいよ。いまの克己はお人形と変わらないんじゃない……?」

 輪郭を撫でられ、間近で瞳を見つめられる。克己も那智を注視していた。

「水蓮と交わらせたのはね。克己に、化学反応を起こすためもあったんだよ」

 明かされる真意。指先は、克己の唇に触れる。

「優秀な次世代の商品を生み出したい、というのが第一の理由。けれどね、水蓮と交わることによって、恋愛とまではいかなくとも。克己の心がなにか変わらないかなって思惑もあったの。わたしと、秀乃はね」

 それに、と那智はさらに続ける。

「水蓮は克己のことが好きなの。表立って騒ぎは起こしていないから、わたしたちは気づかないふりをしているけれど。だから、引退の前に。大好きな克己の子どもを産ませてあげるんだよ。水蓮には稼がせてもらったから、それくらいの恩賞を与えても構わないんだ」
「………っ」

 克己は驚きに目を見開く。息を飲んでいると、那智はくすくすと笑いながら手を離す。その指先は那智自身の舌に舐められた。

「ほら、やっぱり、水蓮に気づいていなかったんだね。あんなにばればれな態度なのに……やっぱり克己は……」

 那智はからかうような笑みのまま。
 踵を返し、母屋のほうに帰っていってしまう。