産声

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 大貴と薫子が戻ってくることはなく、祥衛も克己の連絡先を教えてもらい、事務所を後にする。
 翌日は、怜のクレジットカードを手に美容院に行った。
 オシャレな店内に入るのは緊張する。
 いままでは薬局で買ったヘアカラーで染めたり、てきとうにカミソリで散髪して過ごしてきた。
 しばらく店前でためらってしまったけれど、予約されているので逃げるわけにはいかない。
 これもまた、男娼になるための一歩。
 意を決して明るく広々としたフロアに入り、プリン頭を上品なアッシュブラウンに染めてもらい、きちんとしたカットとトリートメントも施してもらう。
 美容師は笑顔で話してくれるが、祥衛はやっぱり無表情で固まっていることしかできず、申し訳なく感じた。
 
 夜は、ピアススタジオに連れて行かれる──

「もう戻れないよ? 祥衛」

 ハンドルを回す怜にそっけなく訊かれた。

「最後の確認だよ」

 今宵もサングラスをかけた怜に、祥衛は頷く。

(かまわない……)

 夜景を過ぎ、ゲイバーや外国人娼婦の店が集う一帯に怜は車を停める。
 祥衛は、颯爽と歩く怜の後についていった。
 怜の知りあいの店らしく、いままでにも調教した『商品』のピアスを此処で開けたこともあるそうだ。
 来慣れている怜は確かな足取りで、いちゃつく中年男性同士や、たむろする国籍不明の者たちの間を抜けてゆく。
 壁にスプレーで落書きされた雑居ビル、スリップ姿で煙草を吸うアジア系女性が座りこむかたわらの階段を地下に下りると、ピアススタジオがあった。
 やたら重低音を強調したクラブミュージックが空間を揺らしている。
 客はだれもおらず、祥衛はすぐに施術された。

 14Gのニードルを突かれ、両乳首のニップルピアスと、裏筋にフレナムを開けられる。

 痛みに対し、祥衛は唇をわずかに歪めただけ。
 痛いとは思う。
 ただ、それだけ。
 感覚と表情を繋ぐ線が断絶しているから、表情に想いなんてろくに反映されない。

「……キミの悲鳴が聞きたかったのに、つまんないなぁ」

 帰りの車内、怜が舌打ちをする。
 繁華街のネオンに照らされていた残酷な表情。
 そんな顔つきは、怜によく似合う。

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 また別の日は、PARCOに服を買いに連れられた。
 着まわしのしやすいシンプルなシャツやデニムを何着も買ってもらえたが、祥衛には信じられないくらいに高価な洋服ばかりだ。
 怜にはずいぶんと世話になってしまって、申し訳ない。

(おんがえし……できるんだろうか……)

 試着室で着替えたままの姿で駐車場に帰る道すがら、怜の後ろを歩きつつ不安になる祥衛だったけれど、怜はきっとなにも期待していない。
 それはうれしいことなのか、悲しいことなのか。
 どちらでもないのか。

「さっき祥衛のこと、じぃっと見てた女のコいたよね」
「……」

 全く気づかなかった。

「祥衛がイケメンだからかなぁ」

 怜は真っ赤なベンツの後部座席にショッピングバッグを放る。

「ほら、貸しなよ」

 祥衛が持っていた袋も取りあげ、積みあげると座席の扉を閉めた。

(怜君のおかげで、マシにしてもらえた、けど……)

 自分の容姿が格好いいとは思えない。
 小学生のとき『女みたいな顔』とよくいじめられたし顔含めた外見を好きになれそうになかった。

「まぁ、付け焼き刃だけどねー」

 マンションに向かう車内、怜は相変わらずあっけらかんとした様子だ。

「後はキミの努力次第さ」
「…………」
「もうすこしピアスが安定したら、売春しよっか」

 昼下がりの街並みにそぐわないセリフに、祥衛は頷く。

「それまでに大貴くんと仲直りしないといけないんじゃないかなぁ。W指名されることや、キミと大貴くんのカラミを見たいって客も現れるのは目に見えてるからね」

(W、指名……)

 それをされると、具体的にどんな光景になるのかいまの祥衛には想像できない。
 黙っていると、怜にちらりと見られた。

「キミはだれとでも、どんなエッチでもするって、覚悟して俺の所に戻ってきたんじゃないのかい?」

 マンションの前に着くと、怜は祥衛だけを下ろす。

「……してきた……」

 祥衛はぼそりと答えた。
 買いこんだ衣類の袋は祥衛だけで路上に引っぱり出し、怜は降りることもなく去ってしまった。
 何処に行くのか、祥衛は知らない。
 そもそも、怜はほとんど帰宅しない。
 観葉植物の世話をするため、部屋に立ち寄るといった程度だ。

(怜君は、いつ、眠っているんだろう……)

 疑問に首を傾げつつ、ショッピングバッグを手にエレベーターに乗る。

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 夜はまだ遠い。
 室内は優しい陽光に満たされている。
 祥衛はシャワーを浴び、貫通しているピアスの部分は石鹸の泡で丁寧に洗う。
 開けたばかりのときは孔から体液が分泌されて気持ち悪かったけれど、それも治まった。
 けれど、何ヶ月かはピアスを外したり、付け替えたりしてはいけないそうだ。
 時間をかけて孔内に薄皮が形成され、綺麗なホールが出来あがるらしい。

(もっと開けたい……)

 ピアスにハマりそうな祥衛がいた。
 小学校に行かなくなってから、ピアッサーを使って自分で開けた孔はいくつか耳朶にあるけれど、ボディピアスのように拡張したい気持ちも湧いてきているし、身体のほかの部位にも開けてもいいと思う。
 洗濯したてのジャージに着替えた祥衛は寝室に入った。
 広い空間だとなんとなく落ちつかない祥衛は、ほとんど寝室のベッドか、リビングのソファでうずくまって過ごしている。
 こんな性質は怜に『キミもヘンな子だね』と言われてしまった。

(紫帆は……どこでも、開けていい、って言ってた)

 充電のコードの繋がったままの携帯電話を、サイドテーブルから手に取る。
 実はもう開けてしまったことは黙ったまま、ピアスを増やしたい気持ちだけ昨夜話してみた。
 紫帆もヘソに開けたいと言っていたし、ボディピアスを反対されなかったからちょっと安心した祥衛だった。
 紫帆にとってはそんなことよりも、祥衛が何処で眠っているのかや、ちゃんと食事をしているかどうかのほうがいつだって重要らしい。
 電話をするたびに紫帆は心配そうで、そのたび祥衛は嘘をついている。
 母親の彼氏の家にいて、小遣いだってもらえているという嘘を。
 本当のことを話すつもりはない。
 一生、ない。
 死ぬまで嘘を貫くつもりだ。
 後ろめたさからではなく、紫帆をこれ以上心配させないという祥衛の覚悟は何処までも澄みわたっている。
 窓ガラスの向こうに広がる碧空のように。

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『ねえ……祥衛……いま、海にきてるよ』

 耳元に響く紫帆の声。
 祥衛は閉じていた瞼を開けて、頷く。

「……俺、も」

 今夜も埠頭の石段に腰かけている。
 対岸の工場群が綺麗だ。
 昼も夜もなく稼働して、煙突から煙を出して、キラキラと輝いている。

『祥衛は海が好きだね』
「べつに、そんなわけじゃ……ない」
『じゃあなんで、港に行くの?』
「……することが、ないから」

 紫帆が笑った。

(ほんとうは……)

 紫帆がいるのは遠い南の島。
 海を眺めていると紫帆の居場所に近づけている気がするのも訪れる理由のひとつなのだけれど、とても口に出せて伝えられそうにない。

(はずかしいから……)

 目の前に紫帆はいないのに、照れくさい。

『今日は眠れるといいね』

 優しい紫帆の声。
 その後ろで、紫帆の弟や妹がはしゃいでいるのも伝わってきた。
 紫帆の周りは、家族は、いつだってにぎやかだ。 

(俺とは……違って)

 ゆらゆらと揺れる暗澹の波を、祥衛は見つめる。
 今年中に会いにいけたらいいなと願う。
 未来は真っ暗で、どうなることかわからない。
 だから、生きることは怖くて、すぐに投げだして逃げたくなる。
 人間も怖い。

(でも、また、紫帆に会いたい……から)

 祥衛は今夜も生きる理由を確かめた。
 遠くから暴走族の音が聞こえてくる。

『わかった、祥衛、暴走見に来てるんでしょ』

 そういうことにしておく。
 通話を切ると、どんどんうるさくなる派手な音のなかで相変わらずに海を眺める。
 目覚めた杏も沖縄に連れていけたらどんなにいいだろう。
 そんな日は、はたして、訪れるのだろうか。