Gravity

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 祥衛はひとりでホテルを後にした。
 風呂を出た祥衛から「帰る」と伝えて、そそくさとドアに向かう。

「おうっ……。今日は本当にごめんな……」

 ショートパンツにニーソックスの大貴は素肌にジャージを羽織り、玄関まで見送ってくれる。
 心底申し訳なさそうな表情を浮かべながら。

「わるく……ない。大貴は……」
「っ…………」

 祥衛の顔を見て、また涙腺がにじんできたらしく、大貴は瞳に雫をにじませた。
 ジャージの袖でゴシゴシ拭う。
 祥衛はその涙を眺める。

(大貴……も、親に、虐待されてたって言ってた、けど)

 こんなに喜怒哀楽があって、学校も行っていて、友達もいる。

(俺とは、ちがう……ところが、たくさんある……)

「あやまるのは……もう、いい」
「……ありがとうな」
「…………」
「お、俺が泣いたことみんなにゆうなよっ……」

 祥衛はうなずく。

「おやすみ。あ、あと……そのっ」

 ドアノブに手をかけたところで、呼び止められた。

「……男娼の仕事で、身体の具合悪くなったりとか、わからないこととか、ヤなことあったら、なんでも俺に相談して。それとっ、これ……祥衛にあげる」

 大貴はジャージのポケットから、平べったいシンプルな容器を掴みだした。

「ケツ切れたりとか、痛かったら塗るとすげー効いて、治りはえーんだ。俺の主治医の先生が作ってくれる軟膏なんだけど……」

 受けとってまじまじと蓋を見てから、照れくさそうにしている大貴に目線を戻した。

「ほかにもイロイロ、これからは俺、教えるっ。祥衛が決めたことに文句ゆわねー。おうえんするから……」
「…………ありが、とう」

 祥衛はデニムのポケットに軟膏を入れた。
 それから、今度こそドアノブに手をかける。

「じゃあ…………」
「うん。またなっ……」

 笑顔を作る大貴に背を向け、祥衛はドアを開け、廊下に出た。
 歩きはじめてから、フロントに立ち寄らずこのまま帰っていいのだろうかと疑問に気づく。 
 びくびくしながらエレベーターに乗って降下し、一階ロビーも通りすぎたが、従業員に声をかけられることはなかったので安心した。
 建物からも出て、夜風に吹かれる。
 すこしだけ肌寒い。

(明日こそ……杏の病院に行く)

 そう決めてバイクに跨がった。
 帰路は行きよりも空いていて、スムーズに走れる。
 世の中の多くの人は眠っている時間だから、トラックやタクシー、ときどき見かけるパトカーくらいしか国道に姿はない。

(大貴は、いつねてるんだろう)

 学校にもちゃんと通っているなら、寝る時間なんてほとんどないのではないだろうか。
 祥衛はこんな仕事を始める前よりも、夜をうろつく子どもだった。
 大貴も夜の子どもだった──その事実にあらためて驚く祥衛がいる。
 本当は、あんなに太陽が似合うのに。

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 病院に行くとき祥衛はマスクをする。
 理由は、あちらこちらで派手な咳をしている人が目につくからだ。
 外来患者の待合室は特に顕著で、老人も若者もゴホゴホしている。
 ときどき見かける、手もあてずにくしゃみをする姿を睨み、祥衛は会計受付に向かった。
 杏の入院費を母親が払うはずないので、当然、祥衛が支払うことになる。
 男娼の週払いで一ヶ月分の入院費が足りたから、やっぱり男娼をはじめて良かったと思う。
 こんな金額、ふつうの子どもが用意するのは難しい。
 看護師に言われていた入り用なものを院内の薬局で買いそろえて病室に入ろうとすると、杏を担当している男性医師に出くわした。

「神山さんですよね。お母さんって、どうしてる? 病状について保護者の方へ、詳細にお話ししたいんだけど……」
「あ…………」

 祥衛はビクリと足を止めた。

「……し、仕事で、いそがしくて……」

 ありがちな嘘をついた。
 目線をそらして廊下を眺めてしまっているので、怪しまれるかも知れないけれど、うまい演技なんて祥衛にはできない。

「わかりました。じゃ、また、お兄さん」

(杏は…………わるい、んだろうか……)

 気になったけれど尋ねる勇気が湧かない。
 尋ねれば、祥衛にも、教えてくれたかも知れないのに。
 彼は白衣をひるがえし、看護師数名とともに去ってゆく。

(……俺は、……ばか……だ)

 怖くてなにも聞けないだなんて。
 ナースステーションからそう遠くない二人部屋、仕切られたカーテンの中に入り、杏を見下ろす。
 ICUは出たものの、ずっと昏睡状態で、目覚めることはない。
 自発的に呼吸をしていることだけが、救いだ。

「…………」

 薬局のビニール袋を備えつけのテーブルに置き、祥衛はパイプ椅子に腰を下ろした。
 いつもそうしているように、なにも話さず、杏がなにかを話すわけもなく、沈黙を過ごす。
 あたたかな陽だまり、昼下がりの病室で。

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 このまま目覚めなかったら、どうなるのだろう。
 簡単な答えだ──

『死』 

 あれほど祥衛が欲しかったそれが、いまでもふと欲しくなるそれが、祥衛ではなくて杏に舞い降りそうな事実はどこか皮肉的でもある。

(俺が……代わりに、死ぬのに)

 杏が死んでしまうなら。
 たやすく想える。
 紫帆のことは大好きだ、また会いたい。
 でも、杏がもし死んでしまうとして自分の命を差しだすことで救えるのなら。
 いままで感じてきた『死にたい』とは質の違う感情から、投げだせる。
 自傷したり、死に憧れているのと、この命を差しだしても救いたいと感じるのは、違った。

(俺の命には……あまり価値がないような気がする……けど……)

 仕事帰りの暗い道をゼファーで走り、想う。
 高速道路の下、静かな深夜を行く。

(でも、杏は生きている……から)

 俺も生きる……此処で。
 この現実世界で。

(そういえば、怜君は言ってた)

『キミにはなにもないと思っていたけど、まだ“ある”んだもの……』

 八月の寝室。
 そのときには理解できなかった言葉。
 いまなら、わかる、すこしだけ。

(俺には……あった。俺が、さけてただけで……怜君の、言うとおりだ)

 相手の言葉に耳もかさずに、知ろうともせず、状況の改善もはからずに、俺が消えたほうがすべてにとって良いのだとひとりで勝手に決めていた。
 紫帆や杏も含めた他人たちを、俺よりしあわせなのだと勝手に判断し、大貴のことだってきっとしあわせと推測していた。
 そういえば、いじめられていたときも反論することはほとんどなかった。
 静かに廊下に出された机を戻したり、らくがきされた教科書をそのまま使ったりしていたことを思いだす。

(……クラスにいるヤツも、もしかしたら……)

 彼らなりにきっと色々な事情を背負っていたり、悩んでいたり、ときには死にたいと思うのかもしれない。
 祥衛はいま、ふと、はじめてそれに気づいた。

(ほとんど話したこともないから、わからない。わからないのに、どうせしあわせだとか、どうせうざいとか思うのは、本当にやめたほうが……いいな……)

 過ぎゆく夜景に灯っている明かりのひとつひとつにも誰かがいる。
 暮らしていて、それぞれの人生がある。

(俺は…………自分のことなんて、たいせつに、思えないから。他人のことも、たいせつに、してなかった、かも……)

 育てられたかたのせいだ。
 育てられたという単語さえも似合わない。
 放置と、気のおもむくままの虐げ。
 そんな環境で息をしてきて、祥衛の人格は形成された。
 自分を卑下の目で見ることが当たり前になっていた。
 自信なんて持てるはずもない。

(育てられかたに負けたくなんかない……けど……事実だ……相手には、俺のそんな事情なんて、関係ないし、わからない。俺にも、相手の事情なんて、わからないみたいに)

 だからヒトは話すのだろうか。
 言葉で。
 伝えあおうとするのだろうか。

(むずかしいな……俺には。しゃべるのは苦手だ……せめて、これからは話しかけられたときは、ちゃんと、聞いてみようかな……)

 紫帆もちゃんと伝えてくれるタイプだけれど、大貴も。
 大貴は明るい笑顔のほかに、無理してつくる微笑も、怒りも、泣き顔も、苛立つ顔も見せてくれた。
 ホテルの浴室で膝を抱えた大貴の姿を、ふと思いだす。

(真堂はよわくない……きたなくない……と、思う……だけど、それも、俺が事情をしらないから、思う、だけなのか……)

 わからない。
 ヒトはむずかしい。

(俺は……虫とか、ねことかで、よかった)

 見慣れた街並みに差しかかったところで、降りだす雨。
 濡れるのは嫌だから、祥衛は帰路を急いだ。