Morgue

1 / 5

 大貴が目覚めると、かたわらに崇史はいた。リラックスしたパジャマ姿で分厚い本を捲っている。
 崇史はしおりや付箋は使わない。ページを直接折るし、余白になにやら書きこむ。そんな読み方をひさしぶりに見れて、大貴は嬉しかった。
(そうだ……俺……帰ってきてるんだっけ……)
 改めて認識する。寝起きの意識が像を結びはじめる。
 此処は地下の寝室。シャンデリアが薄青い光を落とす古城のような場所。
(パパと……いっぱい、エッチした……)
 激しく求めあったのに、尻穴の違和感はあまりなかった。身体の痛みも。布団のなかでぼおっと崇史を眺めていると、彼は白ワインのグラスを傾け、それから夜食なのか、サイドテーブルに置いたサンドイッチを齧る。ベッドに座りながらの所作だから、行儀がいいとは言えない。
 近くの喫茶店が作るサンドイッチを崇史は気に入っているらしく時折取り寄せて食べている。もちろん大貴も食べたことはあるが、店自体には一度も行ったことはなかった。
「……やっと起きたか」
 大貴の目覚めに崇史が気づく。下着だけの大貴はシーツを這いずり、崇史の近くに来た。
「おはよう、パパ。俺にもちょうだい」
 請うと、崇史は傾ぐ。中途半端に咀嚼したものを口移しでくれる。なんのためらいもなく、大貴はそれをもらった。スモークハムとプロボローネチーズとライ麦パンを味わって飲みこむ。
「えへへ。サンドイッチおいしぃ」
 もっと欲しいから、口を開けて崇史を見る。そんな大貴に崇史は苦笑すると、今度は咀嚼していない口移しをしてくれた。大貴は満足し、身体を丸める。本当に美味しい。でも、喉が乾いているからぱさぱさする。
「水槽の魚か、お前は」
 崇史は本を閉じる。食事に専念するようだ。
「のどもかわいたなー。でもトイレもいきたいしー……あれ、パパ仕事は?」
「もう終えて、帰ってきた」
 えっ? 大貴は驚く。ゆっくりと身体を起こしつつ。
「俺……どれくらい寝てたの?」
「丸一日に近いだろう」
「まじでぇ! えぇええ、もったいねー! 俺の一日、返せよっ!」
 はーあ、とため息をつきながら床に素足を置く。
 せっかく実家に来たから、ノエルとあそんだり鞭の練習をしたかったのに。外出を許してくれるのなら、初等部のときのクラスメイトに会いたかった。
 眠る前に色々と考えていたのに……だいなしだ。
 立ち上がるとワインの傍らに置かれているミネラルウォーターで喉を潤し、洗面所に行く。アメニティはきちんと揃っていて、使用人によりホテルのよう整えられていた。
「んー、シャワー浴びよっかな。けど、ごはんもいますぐたべたいくらいおなかすいてるし、どーしよっかなー……」
 歯みがきも済ませてから、大貴はベッドサイドに戻る。
「先程から、落ち着きのない子だ。ひとつひとつ処理しなさい」
「わかってるよー」
 もうノエルは寝てるだろうから、あそべないなー、と、大貴は愛犬と戯れられないことにふてくされてしまう。口を尖らせ、じゃあ眠くなるまでなにをして過ごそうかな、と考えだしたとき。
「そういえば。峰野の娘のことだが──」
 そんな話題を出された。大貴はうろつく動作を止める。

2 / 5

「あの娘も東京に帰って来ているようだ」
「まじで……パパ、なんでしってるの?」
「令嬢が幹部を務め、お前も男娼として所属している、あの組織から電話があった」
 FAMILYのことだろう。
(電話……カッツンかな、そうゆうことしてくれるのは……)
 大貴が実家にいると知っており、連絡をくれたのか。
「薫子嬢から、組織を抜けると申し入れがあったらしい。そして親元に帰ると」
「おねえちゃん……あんまり、親とうまくいってないんだよ。どうしていきなり……」
「緩慢な自殺だな」
 ぞっとする台詞を崇史は告げた。
「S嬢も辞め、あの装いも辞めて、生きていけるのか? あの娘は……」
 薫子の両親は厳しく、娘のゴシック・ロリータを認めることもない。
「俺……いまから、おねえちゃんち行く」
「……何時だと思っている」
「でも……!」
「今夜は大人しくしていろ。明日、連絡をしなさい」
「……っ……」
 地上への扉は、きっと解錠してもらえない。大貴は唇を噛んだ。
「じゃあ……そのかわり、今晩はヘンなことしてほしくない。キスまでしか、だめだよ」
「努力しよう」
「なんだよ、努力って! ……俺、シャワーあびるから、俺のすきそうなフルーツにチョコレートソースと生クリームを添えて、メープルシロップいっぱいかけたパンケーキとハーゲンダッツのバニラとー、それからフレンチトーストも用意するようにって命じておいて。食後の紅茶はフォションのシヴァのミルクティーを指定して!」
「……聞いただけで虫歯になりそうだ」
「うるさいっ。わかった? おぼえた?」
 ああ覚えた覚えた……と呆れたようにあしらわれながら、浴室に入る。大貴だってわかっているのだ、感情にまかせて深夜おしかけたって、どうにもならないことは。

3 / 5

 食事のあとごろごろしていたら結局また眠ってしまった大貴は九時に目が覚めた。地下に陽光は入らないので朝の実感は得られない。
 崇史は、約束を守って手出ししてこなかった。当然だけれど、彼はとっくに仕事に行ってしまってもういない。
 お湯に浸かられたら如何ですか、と執事がセッティングしてくれたので、大貴は猫足のバスタブ、海塩とオレンジの精油に満たされた湯に浸かる。
 浴室を出ると化粧水とクリームも並べられている。大貴はそれらを肌になじませ、ドライヤーを使った。隣室に控えている使用人たちから、髪を乾かしてさしあげますよと声がかかるが、自分で乾かせるからと断る。
「ねー、俺、ボクサーパンツがいい」
 用意されている下着はビキニタイプで、気に入らない。
 だから履かずにバスローブだけを羽織って隣室に話しかけた。崇史さまからご指定されておりますので、との返事……大貴は諦めてその黒い下着を穿いたが、穿いてみてもやっぱり好かない。
 入浴を終えてからは、念入りなケアを受ける。柑橘系のボディーローションをマッサージとともに塗りこまれ、フットクリームも施される。心地いいから、なんだかまた眠くなってきた。ハンドケアとともに爪の手入れも自動的にしてもらえるから楽だ。
「おぼっちゃまは、ご令嬢さまと暮らされているとき、爪のお手入れはどうしていらしたのですか?」
「じぶんでしてたよ。やすりかけるのも、みがくのも」
 そう言うと、歓声とともに感動される。拍手する家政婦もいる。おおげさだ。
「……もう中学生なんだからー、自分の身体の管理も、自分でできるよっ」
 すべての手入れが終わると黒いコルセットを用意されていた。ボーンの数は多く、しっかりとした作り。それも使用人たちが着けてくれる。
「お食事の前ですし、ゆるめに締めておきますね」
「うん。ところで俺、薫子おねえちゃんの家に電話したいんだけど」
 その姿にバスローブより薄手のナイトガウンのようなローブを羽織りゆるく結ぶのが、今日の大貴の装いらしい。こんな格好をさせられるから、地下で過ごせということなんだろうと理解した。
「お電話の間に、ブランチを此処へお運びいたします。メインをパスタ……プッタネスカに致しました。朝方、パンケーキなどをお召し上がりになっていましたので……雲丹のオムレツと、サーモンのマリネ、デザートのケーキも幾つかご用意しました」
「ありがと。おいしそう!」
「お紅茶はどういたしましょうか」
「んー、……じゃあブランチだしー、アーマッドのセイロンのストレートティー」
 承知致しました、と使用人は頭を下げる。それから、優しく微笑ってくれた。
「ご令嬢さまからいいお返事があるといいですね」
 小さなころから『薫子おねえちゃんと結婚するんだ!』そればかり連呼して暮らしてきたせいもあり、真堂家の人々はみんな大貴を応援してくれる。大貴ははにかんでから、孔雀の羽根もあしらわれた蠱惑的なスリッパを穿いて部屋を出た。アンティークインテリアのように古風な電話台は地下の大広間の片隅にある。
「あっ、ノエル! 昨日は僕、ずっと寝ててごめんっ」
 広間の方角から、ノエルは短いしっぽを振って、大貴のほうに駆けてくる。
「いまから薫子おねえちゃんに電話するんだよ。ちょっと緊張するから、ノエルにそばにいてほしいなー」
 ノエルはちゃんとついてくる。一昨日から、ひさしぶりに大貴に会えてうれしくてたまらないらしい。大貴はノエルに満面の笑みを零してしまいながら、辿り着いた寒々しい大広間で受話器をとる。
 薫子に関するいろんなことを暗記している大貴は、もちろん電話番号も完璧に覚えていた。

4 / 5

 ダイヤル式の電話機、まずは携帯電話にかけてみると──アナウンスは……おかけになった電話は、現在使われておりません……とのこと。
「えー?! うそだ。ぜったい番号あってるよ!」
 大貴の笑顔は困惑に曇る。もういちどおなじ番号をダイヤルしても、聞こえる音声は当然同じ。
(まじかよ……、どうしよう)
 じゃあ、やっぱり実家かー…………大貴はため息を零す。ノエルはいつでも、すぐに大貴の機嫌を読みとってくれるから、悲しそうに足元に伏せる。
「苦手なんだよなー、薫子おねえちゃんのパパとママ……こわいもん……僕のパパとママとは、ぜんぜんちがうんだよ」
 薫子のピアノの発表会など何度も会ったことはあるし、峰野の邸宅に招かれたこともある。
 母親は美人だけれど神経質な雰囲気で、父親は頑固なほどに真面目そうな人だ。彼らの前に出るときは、いつにもまして挨拶や身だしなみに気を遣ってしまった幼いころの大貴だった。
 そんな二人だから、大貴と薫子が同居していたと知れば卒倒してしまいそうだ。薫子が実家を出たことだって許可を得て始めたわけではなく、勘当に近い。
「でも、電話に出るのは家政婦さんだよね……?」
 ノエルに問いかけても、ノエルにそんなことはわからない。大貴は意を決してダイヤルする。
(うわー、きんちょうする! やべー!)
 二回の呼び出し音のあとに出たのは、妙齢の女性の声。はい、峰野でございます、と言った。
「あ、あのっ……真堂と申しますけど……」
『申し訳ございません。お嬢さまから、お取次ぎはしないようにと申し渡されております』
 まだなにも話していないのに、そう言われた。大貴は目を見開く。
「どうしてですか? すこし、話すだけでも」
『本当にすみません。大貴おぼっちゃま。もうご連絡はお控えください……おゆるし下さい!』
 勢いよく切られた。信じられない……大貴は呆然として、しばらく立ち尽くしてしまう。
「なんで……?」
 わけがわからないまま、長田の番号にもかけてみたけれど出てくれない。大貴は泣きそうな気持ちになりながら、受話器を置く。そんな大貴のことを、ノエルは心配そうに見つめている。
「──大貴さま、ブランチのご用意が整いましたよ」
 コツコツと、足音をさせて執事が歩いてくる。
「ごはんなんて気分じゃないよ。なんにも話してないのに、切られちゃった……もういっかい電話する!」
「日に何度もお電話するのは、無作法でございましょう」
「でもー……」
「明日、私のほうからもご連絡してみます」
 黒柳は諭すような口調で言った。表情は優しく、見上げる大貴の肩を、そっと触れてもくれる。
「真堂家にお仕えする使用人たちは皆……ご婚約者さま候補として大貴さまお自らお選びになった、峰野のご令嬢さまを信じております。ですから、大貴さまもどうか落ち着かれてください」
 気恥ずかしさと嬉しさが同時にこみあげる。照れてしまったのを隠したくて、大貴は執事の手を払いのけ、さっさと歩きだした。
「……僕がおねえちゃんを信じてなくて、どうするんだよ。食後は鞭の練習をする。用意しておいてっ」
「了解いたしました」
 大貴のあとを、ちゃんとノエルはついてくる。さらにそのあとを、執事が続くのだった。

5 / 5

「Rook」
 シンプルな黒革のスネークウィップは、一本の曲線美を描き、音を鳴らす。
「Bishop」
 地下の遊戯場で、並べたチェスの駒を打つ。
「Pawn」
 他の駒を倒さず、狙ったものだけを跳ねる。訓練で子ども離れした技術を身につけていた。
「Knight」
 右腕の筋肉をしならせ、左腕でもバランスをとる。壁に映し出される影絵のフォーム。
「Queen」
 しゃがんで打ったりもする。それでも外さずに倒し、跳ねさせる駒。
「Checkmate……ふふっ、Brilliant move」
 王は綺麗に跳ねて転がる。大貴は孔雀羽根のスリッパから履き替えた練習用の高いヒールでも器用に歩きふたたび駒を並べにゆく。駒はランダムに並べる。
「End game」
 チェスの次は等身大の球体関節人形を吊るして巻き鞭の練習をしたい。
 可哀想で綺麗な長い黒髪のお人形は赤いベルベットの女王椅子に座り、少年をひび割れた瞳で見つめ続ける。退廃的な美しさを誇るalice auaaのドレスを纏って。
 大貴が幼いころからの鞭打ちに破損した躰は何度も挿げ替えられ、もういくつめの躰かわからない。
「My mother has killed me」
 額に滲む汗と跳ねさせる駒。
「My father is eating me」
 円弧を描く鞭。しなる腕。楽しくなってきたから、振り下ろしながら歌う。
「My brothers and sisters sit under the table」
 執拗に積み重ねてきた技術。
「Picking up bury them under the cold marble stones」
 ばらばらと転がるチェスの兵士たちは無残に倒れ、王を守れない。
「……Checkmate」