Dragee

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 華族の邸宅だったという英国式の洋館。
 普段は入園料を取って、一般の人々にも解放されている。洋館の一階はカフェに改装され、敷地内には美術館もあった。
 そして、なんといっても薔薇園が美しい。初夏と秋のシーズンにはライトアップもされ、都会のオアシスといっても過言ではないスポットだ。
 この敷地すべてを借りてもらった大貴は、カフェでアールグレイを味わっている。
 今日は貸切なのでガランとしていて、大貴のためだけの紅茶だ。しかし、せっかく淹れてもらったのに、緊張しているせいであまり飲めない。ほとんど口をつけないまま、ウエッジウッドのカップを眺めていた。
 薫子はもうすぐ此処に来る。
 見合いを兼ねて峰野家と律泉家、両家のあいだで行われる会食にさきがけて今日。律泉の御曹司が「ふたりきりで逢いませんか」と、薫子に告げた。
 そんな嘘を信じて薫子がやって来るのだ。
 大貴のためではなく、他の男との婚約のためにお洒落をしてやって来る薫子。想像するだけで腸(はらわた)が煮えくり返りそうになる大貴だったが、そうでもしなければ薫子を此処に呼びだせる理由がない。
 協力してくれたのはあの日電話で大貴を断った家政婦や、長年薫子に仕えている長田たち使用人。
 峰野家にも急すぎる見合いに疑問を持つ人は、実は多かったらしい。
 長田の対応は大貴にとって意外だった。うさんくさいおじさん、と思って接してきたのを、ちょっと改めてもいいかなあと思う。
「おぼっちゃま、ご令嬢がいらっしゃいましたよ」
 真堂家の使用人が部屋を覗き、伝えてくれた。
 大貴は席を立つ。纏うGaultierのスーツは、上質で艶めく黒。テーブルクロスの上に置いていた薔薇の花束も取った。もちろん真堂家の薔薇庭から摘んできたものだ。
 7月は薔薇のもっとも咲き誇る季節ではない。だが、それでも美しく咲いてくれているものから赤い薔薇だけを選んで花束にした。もちろん使用人にまかせるのではなく、大貴もいっしょに今朝作った花束。
(めっちゃ緊張してきた……やべえ……)
 黒いシャツの腹部をさすりつつもカフェから、別室に移動した。高い天井の瀟洒な壁紙の部屋。窓からは陽光が差しこむ。
(胃がキリキリする。でもっ……)
 ちゃんと自分の想いを伝えたい。
 薫子の想いも知りたい……
 だから大貴は息を吐いて、やって来る薫子を待つ。長田がこの部屋まで案内してくれる手はずになっていた。

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 長田に扉を開かれ、黒髪をハーフアップにセットした令嬢が入ってくる。ベビーピンクのワンピースに日除けのカーディガン、パールの首飾り。
 綺麗なことには変わりないのだけれど、なんだか薫子の本当の魅力を引きだしていない着飾り方に、大貴には見えた。
「……あ、貴方………」
 大貴を認識した瞬間、薫子は驚愕を表す。これ以上ないほど目を見開き、背後の長田を振り返る。
「ちょっと、いったいどういうこと?! どうして此処にあの子がいるの!?」
 長田は逃げてしまう。閉ざされた扉を薫子は叩いた。
「開けなさい! 開けなさいよっ! あぁ…………!」
 ドアノブを回すも開くことはない。必死な姿の薫子を見て、大貴は苦笑した。
「もう逃げられないよっ。俺の話をきーて……」
「貴方と話すことなどなにもないわ、信じられない……!」
 ふたりきりになった空間、薫子は大貴を睨みつける。愛らしい装いをしていても、その眼光に鋭さは宿る。
「だましたのね。貴方たちで結託して。許しがたいわ、私は充琉(みつる)さんに逢うために来たのに──」
「そんなヤツ、今日は来ねーよっ。ウソだもん!」
 信じられない……薫子はまた、そう呟いた。
「……いったい、どういうつもりなの……!」
「それをいいてーのは、俺のほうだし……」
 大貴は尋ねる。緊張はもうどこかに消え去っていた。
「大人になったらおねえちゃんと結婚したいって……何度も、何度もゆったのに。どうして他の男のひととお見合いなんてするんだよっ」
 薫子に近づいてみた。追いつめられた薫子は背をドアから離さないまま、意地の悪い笑みを零す。
「子どもの戯言でしょ……そんなもの、真に受けるわけないじゃない」
「ちがうよ、ざれごとなんかじゃないよ!」
「そうだとしても私には関係ないわ」
 薫子はそっぽを向いてしまう。明るいチークがされた横顔に、大貴は決意を告げた。
「じゃあ、改めてゆうっ……僕と……」
 思いきり頭をさげる。
 ギュッと目を閉じて──伝える。

「……僕と結婚を前提におつきあいしてください、おねがいします!!」

 しばらくのあいだ、空間は静寂だった。だれの声もしないし、物音もしない。
 静けさを壊したのは、薫子の笑い声だ。
 大貴はゆっくりと姿勢を正す。
 なにがおかしいのか、薫子は唇を歪めて笑いつづける。やがてその表情はすっと真顔になり、嘲笑は止まった。
 そして憎悪に近い表情を、大貴に向ける。
「……ふざけないで。子どものくせに……いいかげんにして。貴方のごっこ遊びに付きあわせないで!!」
 ヒステリックに叫ばれた。そんな姿を目にするのは悲しいけれど、大貴はもう怖気づかない。
「僕は本気だよ、本気でおねえちゃんがスキだッ。だれにも負けない。歳なんて関係ない!!」
 胸に手を当てて大声を返す大貴のことを、薫子はスクエアネイルで引き裂くように払おうとした。
 優しいベージュ色に塗られた爪は、薔薇の花束にもひっかかる。真紅の花びらはすこしだけ散り、はらりと舞う。
「生意気な子! なによ、消え去って頂戴! 貴方なんて──……」
「……やっぱりおねえちゃんには薔薇が似あう」
 大貴の視線は、絨毯の床に落ちた花びらに注がれた。
 意識せずに唇をゆるめてしまう大貴だ。
「血の色みたいな薔薇がよく似合うってこと、僕は5才のときからずうっと知ってるんだよ。これからも、そんな薫子おねえちゃんでいてほしいな……」

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 薫子はうつむいてしまった。両手で顔も覆ってしまう。
「ねえ、薫子おねえちゃん……いっぱい、気持ち悪くて痛いことしよっ。SMしよっ」
 こんな場所でなにをいってるの……と、薫子はかろうじて聞こえるほどの声で呟いた。
「黒い口紅をぬって、ガイコツをかざって、それから蜘蛛の巣の形をしたクッキーもたべたいし、目玉のゼリーもまた作って。いっぱい、ゴシックなドレスをかってあげる。一生かってあげる! それでー、俺にもおねえちゃんのスキなお洋服を着せて。なんだって着るよ。廃墟に行こ。外国の墓地にも行こ。吸血しあおっ!それでね、SMの話だけど、俺もたまにはおねえちゃんに痛いことしたい。そのかわりおねえちゃんも、俺のこといっぱい調教して。でね、結婚式は黒いウエディングドレスだし、棺桶から登場してみんなをおどろかせよーぜっ。古いお城をべっそうにしてー、拷問器具もあるようなところがいいなー……それで、それで……!」
「……駄目よ……」
 薫子はついに、絨毯に崩れおちてしまった……顔を覆ったまま。
「私は、崇史さまみたいにはなりたくないの。おなじことを、貴方にしてしまいたくはないの……もう、傷つけたくないの……!」
「……おねえちゃん……!」
 大貴も絨毯にしゃがみこんだ。薔薇の花束はかたわらに置く。
「大貴くんはとてもいい子……それは、私だって、ずっとむかしから知っているわ。頑張り屋さんで、いつも笑顔でいて、私が沈んでいると楽しませようとしてくれて……貴方はだれにでも優しくできる。ひどい目にあっているのに。まだ子どもなのに……」
「おねえちゃんだって、やさしいよ。ずっと俺を助けてくれた。いっしょに住んでくれるなんてこと、ふつう、してくれないよ……」
「だって貴方は私の可愛い、弟みたいな存在なんですもの。それにどれだけ救われたか、知っていて?」
 ……知らない。
 大貴も表情を曇らせる。
 いつもすました顔で、ツンとしていて、人形のように綺麗で、大人びている。そんな薫子は、あまり想いを語ることもなかった。
「私はずっと、蔑まれてきたの。お家では、気味が悪いと言われるの。お洋服も、読む本も、すべてを否定されるの……」
 やっと手のひらを離した薫子の瞳はうるんでいる。大貴が、泣いている薫子を見るのははじめてだ。
「泣かないで。俺まで、かなしくなる。おねえちゃんに泣かれたら……!」
 大貴はスーツのポケットを探る。ハンカチを取りだし、拭おうとした。その瞬間に、薫子は強く吐露してくる。
「どうして私が?! ……いつもそう思っていたわ。こんな趣味に目覚めるのは、他の娘でいいじゃない。私は、峰野家の一人娘として、清楚で、貞淑な、お嬢さまでいなければならないのに……どうして私は、黒いお洋服や、激しくて虚ろな音楽や、血や臓物。あのひとたちに言わせると、気持ちの悪い芸術。道化のようなお化粧。そして加虐趣味。アンダーグラウンドな闇……闇に惹かれてしまうの?」
 ねえ、どうして……?
 切なく尋ねて、また顔を隠してしまう薫子。
「……運命だからだよ。薫子おねえちゃんの」
 それが問いかけに対する、大貴の答えだった。

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「俺の運命は、生まれつきに性玩具として育てられたことだから、俺とおねえちゃんの相性はぴったしなんだよ。俺が、薫子おねえちゃんをもっと深い闇につれていってあげる。見せてあげる。ずうっと愉しませる」
 大貴は優しく告げた。
「パパがゆってたんだ。性玩具である俺を愛するには、常識の価値観、善悪、りんり……すべてを捨てなければだめなんだって。常闇の求道者だけが俺を抱けるんだって」
「なんてことを言うの。崇史さまは……」
 おそろしいわ……と、薫子は言った。実際に、震えるようかぶりを振ってみせる。
「だいじょうぶだよ。怖くないよ。だって俺と堕ちるんだよ……底まで、ずっと手を引いてく」
 薫子は呆れたように、苦笑する。大貴のハンカチは、やっと薫子の頬に触れることができた。
「大貴くんは常識とは違った生き方をたどらなくていいの。いまからでも遅くないわ。お昼間の世界だけで生きなさい。お友だちと遊んで部活もして、ごく普通の毎日を送るの。 それが『幸せ』なんじゃなくって? きっと、そうよ……」
「そうゆうの、すげーうらやましいけど。俺にはできないって、痛いほどわかったから……」
 普通の学校に通えて、普通の子どものフリを楽しめるだけでじゅうぶんだ。
 それなのに薫子は、強い語調でたしなめる。
「駄目よ。まともな日々を送らなくてはと思ってもいたの、ずっと。お互いにちゃんとしましょう」
 薫子は立ちあがった。泣き顔はもう消えている。すこしだけマスカラは落ちてしまっている。
「私は峰野の娘としての役目を果たすの。今回の縁談で、峰野家の事業の幅は大きく広がるわ。いままで気味の悪い趣味で困らせたり、一人暮らしも許してもらっていたんですもの。罪滅ぼしにもなるはず」
 おなじく立ち上がる大貴を拒むように、薫子は手のひらを向ける。
「貴方は……例えばおばあさまの元で、清純な生活をしなさい。きっと性玩具の運命も忘れられる。それが、いちばんいいの。私のいうことを聞きなさい」
「ヤだよ、そんなのっ……!」
「貴方の身も心もたくさん傷つけた私といては駄目。その想いは他の女性に向けてあげて。言ったでしょう、貴方ならきっとすてきな恋もできる……私と倒錯した世界にいては、駄目なの」
「ぜったいイヤだ。そんなんで、俺もおねえちゃんもしあわせになれるわけないじゃん。いっしょにいようよ、これからも……!」
 大貴は薫子の手をつかむ。そして強く握った。
「おねえちゃんとしあわせになるためなら、いくらでも悪い子になってやる。いい子じゃなくていい!」
「いつからそんな聞き分けのない子になったの……」
 薫子はとても切なそうな表情をする。
「おねえちゃんが俺に冷たくしたのは、俺のためを思って……薫子おねえちゃんのそばにいられなくなった俺は実家に帰って、結局おばあちゃんの家にいって、それで普通の生活をー……とか、考えてくれたんだよね……?」
 薫子は悲しげに目を伏せる。
「だから悪いひとのフリをしてくれてた。俺も、おねえちゃんとしあわせになるために悪い子になる。お見合いをダメにする。けど、責任は絶対とる。約束する!」
「貴方……」
「俺は社長を継いで、おねえちゃんの家の事業も支えるし、おねえちゃんのパパとママにも、律泉っていう人たちにもいくらでもあやまる。本気でおねえちゃんのことがスキだもん。ずっと、いろいろ考えさせて、なやませて、つらい思いさせて……ホントにごめん……」
 大貴は自然に薫子を抱きしめてしまった。薫子にこんなことをしたのははじめてだ。もう大貴の背はミュールを履いた薫子よりも大きい。

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「謝るのは私よ……私なのよ。本当に、本当に、ごめんなさい……どうしていいか、わからなかったの……本当はやっぱり、貴方の身も心にも負担のかかる、男娼のお仕事もさせたくなんてないの」
 零される薫子の本音を、大貴も切なく聞く。
「だけど、貴方をどう癒してあげればいいのか、とてもむずかしい……白状するけれど、崇史さまを憎いと思ったこともあるの。大貴くんをこんなバランスにして……あのひとは悪魔でしかないわ」
「それ……俺のパパにはー、ほめことばだぜ」
 大貴は笑ってしまった。薫子は首を横に振る、大貴の腕のなかで。 
「憎らしいひとね。そして、おそろしいひと……」
 薫子はすこしだけ身体を離した。そして、大貴の顎に触れてくれる。観察するように、見上げて。
「崇史さまによって、こんなにも魅力的に育てあげられた貴方は、私の手には余りすぎるわ。きっと、もっとすてきな男の子になってゆくに違いないから……」
 ため息もついた。まるで、困っているかの表情だ。
「手に余るなんてゆわないで。俺の首輪の鎖を持つのは、おねえちゃんじゃないとヤだっ。おじさんたちとエッチするとき、これからもー、薫子おねえちゃんの飼う男娼としてさせてっ……こうゆうことでまたおねえちゃんを悩ませちゃったら、ヤだけど……俺のご主人さまでいてほしい。女王のときの薫子おねえちゃんも、俺はだいすきだから……」
「もう……」
 薫子はやっと微笑ってくれた。
「貴方には根負けよ。敵わないもの……私は、様々な覚悟を決めるときがきたのね」
「ごめん、おねえちゃん……」
「謝らないで頂戴」
「うんっ……たくさん思い出つくろうって、前、おねえちゃんゆってくれたよね。そうしよっ。これからも、ずっと、ふたりで、楽しいことしよっ」
「そうね。この夏は貴方の好きなところ、どこにでも連れて行ってあげるわ」
 薫子は大貴の腕をすりぬけた。その雰囲気はなんだか、いつもの薫子に戻っている気がする大貴だった。化粧も洋服も違うけれど……
「貴方にはひどいことをしてしまったから……」
「ほんとに……ほんと? おねえちゃん、だいすき!」
 大貴は満面の笑みを浮かべてしまう。やったー、と、その場ですこし腕も広げてしまう。そんな大貴を見て、薫子も嬉しそうに笑う。
「……じゃあッ。じゃあ、これ、もらってくれる?」
 やっと薔薇を掴みあげて、大貴は薫子に向けた。薫子は頷いて12本の花束を手にしてくれる。
「ありがとう、大貴くん。とっても嬉しいわ。貴方の想い……大切にしたい」
 大貴と薫子はそろって部屋を出た。扉はたやすく開き、人の気配がしない。
 気遣われているのか、ふたりきりだ。
 出口へと歩いてゆきながら、薫子はちゃんと花束を抱えてくれている。
 はっきりと感情を口にすることは少ない薫子。けれど大貴には十分すぎるほどにわかったし、伝わってくる。大貴の告白を受け入れてくれたということが。
「……えへへ。おねえちゃん……ううん。薫子ってよぶ。だめ?」
「どうしたの? いきなり」
「だって俺、ドレイからー、ドレイでカレシになったんだよ。カレシなのにおねえちゃんはおかしいもん」
 アーチ型の扉の向こうから、差しこむ光。その先には庭園が広がっていて、青空が眩しい。
「お好きになさい」
 薫子は優しい、いつだって──
 大貴はありがとう、と改めて言ってから、庭に降り立ち、口を開く。話したいことが溢れて、どれから伝えればいいのか迷いながら。
「実家に戻ってから、ノエルとパパと三人で寝たりもしてるんだよー……いいでしょ……ほかにもいっぱい、いっぱい話してーことあるんだ。ずーっと話せなかったから……あのね……あのね──……」