Valiant

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 その夜の仕事が終わると、大貴はFAMILYの事務所前で車を降りた。
 都心を流れる堀川沿いにあるラブホテル街の裏路地。其処にたたずむ壁面に蔦の這う古いビルが、FAMILYのビルだ。土地柄、怪しげな業務を行う雑居ビルは他にもいくつかあるが、FAMILYはそのなかでもかなりの暗部に属すことは間違いないだろう。
 大貴を下ろしたベンツは、次は薫子を迎えにゆく。
 マンションに帰ってこなくなった薫子は、このビル内に部屋を借りて暮らしているらしい。
 大貴は並ぶ郵便受けの傍ら、壁にもたれて薫子を待つ。
 今日は薫子と話をする──そう決めて此処にきた。
 頬を叩かれた日から会っていない。薫子とちゃんと話したいとはずっと思いながらも、怒られるのが怖くて、言い争いになるのも悲しくて、直視できなかった現実。
(ちゃんと向きあわなきゃ。ちゃんと……)
 このままじゃ、埒(らち)が明かない。
 エントランスから、暗い道路を眺めて時間を過ごす。唇をぎゅっと閉じて。
 やがて、ビルに車が帰ってきた。
 大貴は緊張する。Tシャツのなかに隠し下げているロザリオを握りしめ、祈るように息を吐いてから手を離した。
 響いてきた、聞き慣れたヒールの音。去ってゆく車。そして現れるのはalice auaaのドレスを纏った薫子。蜘蛛の巣のように広がるヴェールに包まれて、濃赤の口紅をした姿はまさしくゴシックの女王。
 薫子は大貴の姿を認めると、眉根を寄せる。そんな剣呑な表情も美しい。
「おねえちゃん……」
「邪魔よ。どきなさい」
 どうして大貴がエントランスにいるのか、尋ねることすらしてくれない。ただ大貴の背後にエレベーターがあるから、そう命じただけ。
「イヤだ。おねえちゃんと話がしたいもん」
 気圧されながらも大貴は言った。すこしの怖さは、口にしてしまえば強さになって大貴を奮い立たせてくれる。
「私はべつに……したくないわ」
「俺がしたいんだよ」
「貴方の我儘に付き合ってるヒマはないの。どきなさい」
「どかねー……!」
 エレベーターの扉を、背中でふさいだ。こんなことをしたら薫子をもっと怒らせる、そう思うけれど決めて来たのだ。今夜は従わない。いい子はやめる。

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「いいかげんにして……いつから、貴方は聞き分けのない子になったの?」
「わるい子でもいい、おねえちゃんと話せるなら」
 薫子は言葉を止めた。彼女のかすかな変化を感じとりながら、大貴は自分の想いを伝える。
「俺はー……これからもおねえちゃんといっしょに住みたい。いっしょに、ごはんも食べたい! どうして、避けるの? 俺のダメなところ、ちゃんとなおす。野菜も食べるし、おかたづけもする! だから、俺を避けないで……」
 黙ったままの薫子だけれど、無表情ではない。悲しさも含んだような複雑な瞳をしている。しかし、表情の真意は大貴には読みとれない。
「おねえちゃんは俺がきらいなの?」
 分からないから、尋ねてみる大貴だった。
「……そんなことはないわ……」
「じゃあー、どうして……」
 否定してくれたのは嬉しい。
 沈黙になるエントランス。
 大貴は、自分の想いをあらためて告げる。
「俺、薫子おねえちゃんのことだいすきだよ。それはずっと変わらない。小さいころから、大人になっても、ずっとずうっと変わらない! ほんとうにスキなんだよ。だから……」
 あたためてきた案も、告げてみる。
「期末テストで一位とったら、またマンションにもどってきて。男娼の仕事もちゃんとする。それで勉強もできたら、ちゃんと両立できてるよっ。だから、それならいいでしょ?」
「……無理よ、そんなの──」
「ムリじゃねーよっ。約束だよ」
「考えておくわ」
「おねえちゃん……」
 否定されなかったから、とりあえずはホッとする。
「考えておくから、どきなさい」
 今夜はもう満足だ。大貴は背中を離して道を譲る。
「夜道を歩くのは危ないから、長田の車を呼びなさい。まだそのあたりにいるはずだわ」
 帰り道の心配もしてくれるから、つい、笑顔になってしまう大貴だった。
「ヘーキだよっ。俺は男だもん」
「補導されたらどうするの」
「じゃあー、通りまで出たら、タクシー拾う」
「まあ、貴方の好きにすればいいけれど」
 大貴のそばに立って、エレベーターのボタンを押す長い爪。血の色に塗られていて、漂わせる香りは上質な薔薇。闇の気品は相変わらずだ。
「ひさしぶりにおねえちゃんと話せてうれしかったっ。ほんとうはー、もっといろいろ話したいんだよ。今日のプレイも、最近したプレイのことも……横浜でちぃに会ったことも……学校のことも」
 薫子は黙っている。扉が開けば、静かに乗りこんだ。
 SM道具が詰められている、このまま旅行に行けそうなほど重厚なキャリーバッグを手に。
「でも、いまはいい。テストで一位取ってー、認めてもらうまでは……」
「そう……」
「おやすみ、おねえちゃん。だいすきだよ──」
 伝えると、エレベーターのドアが閉まるのを待たず大貴は駆けだした。すこしだけでも薫子と会話できたのが嬉しくて、決意を伝えられたことも嬉しくて、にやけてしまいながら。

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 近頃の学校では、大貴と紫帆は付きあっていることになっている。ちがうと言っても聞いてくれない。紫帆がほとんど登校しないこともあり、大貴だけで弁解していてもまったく信じてはもらえず、面白そうに騒がれるばかり。
「ちげーってゆってんだろ。しつけーよ! おまえらほんとスキだよな、そーゆうの」
 この年頃の子どもたちに対し──休み時間、机に脚を乗せた行儀の悪い姿で大貴は呆れる。
(男子と女子がちょっと仲いいだけで、つきあってるとか、スキなの?とか……)
「ウチの母ちゃんも見てんだぜ! 沢上と歩いてるとこ!」
「う〜わぁ、決定じゃん!」
 はしゃぐクラスメイトたち。大貴にしたら、どうしてそれだけで付きあっていることになるのか分からない。
「見まちがいだろ。なんで俺らだってわかんだよ」
「沢上もだぃきも目立つんだよ。髪の色も服もさ」
 涼介に指摘された。大貴にすればそれも心外だ。
「俺は自毛だし、服もべつにふつーだろ」
「けど黒髪じゃないし、格好もセンスいいってか、中学生ってカンジしなくてカッコいいよな」
 涼介の言葉に、少年たちは頷きあっている。
 まじで?と大貴は驚いた。
(うっそ。こいつらと会うときは、けっこーふつうのヤツっぽくしてるつもりなんだけど……ジャージとか、安いTシャツとかきてるし!)
 靴だって、彼らの前ではコンバースを履くようにしている。そんなに高くない。
「金持ちはちげぇよなあ〜」
 男子が言い合っていると、女子も話題に入ってきた。
「えー真堂って金持ちなのー?」
「コイツすげーとこ住んでんだぜ、通りぞいのタワーマンション、一階におしゃれなバー入ってるやつ」
「真堂あそこ住んでるの? すごいじゃぁん」
 浅野さんが顔をパァッと輝かせた。おとなしいグループの女子たちも、遠巻きに大貴を見てきた。
「あぁああうるせーよ。ねーちゃんの家なだけで、俺はしょみんだもん!」
「でもすげーこづかいもらってるらしいじゃん。財布もヴィヴィアンでさぁ」
「ネックレスも持ってるし」
「そういえばシンドウ不動産とかほかにもシンドウなんたら〜って会社よく聞くよね。親戚?」
(やべえ)
 ピンポイントに突かれた。
 親戚どころか、親は社長でなおかつグループ全体を統率しているほどの人物だとは言えるはずもない。……言ったところで、ウソだと思われるだろうが。
「んなわけねーだろ。だったら、この学校きてねーし!」
 大貴がそう言うと、だよなぁと笑われた。するとチャイムが鳴って、この場をなんとかやりすごせた気がした大貴だった。

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 普通の世界は難しい。
 本当にこれが『正解』なのだろうか、あやしまれないだろうか、ヘンに思われないだろうかと不安を抱いていて、いつも手探りだし、気を遣っている。
 煙草や酒といった不相応な匂いはさせないようにしているし、プレイで妙な痕が残って着替えづらいときは体育をさぼる。話題を合わせるためにゴールデンタイムの番組を録画して倍速でチェックするのも日課だし、仕事中はあまりメールやLINEが出来ないから返事はちょっと億劫なんていうキャラを作っている。場合によっては運転手の長田にスマホを預けて適当な返信を続けさせる夜だってあった。彼は意外にそつなくこなしてくれるから、助かっている。
 ゲームのレベル上げだって、仕事でどんなに疲れていてもアリバイ作りもあってしないといけない。自主学習する時間なんて、本当はほとんど無い。
「あー、くっそねみぃい……」
 シャープペンを放り投げ、大貴は欠伸をした。
 放課後に立ち寄った紫帆の家、ちゃぶ台にノートと参考書を広げて。
「どうせまた夜中までゲームしてたんでしょ」 
 紫帆はそういいながら、お盆にグラスを載せて来てくれる。ショートデニムから伸びる素足で畳を踏んで。梅雨開けも近くなってきて、紫帆はすっかり夏の装いだ。
「ふぁあ……そんなカンジ……」
「真堂はやることがいっぱいあって、大変だね」
 はい麦茶、と置いてくれる。
 ときどき大貴は、紫帆になにか勘づかれていないかと感じる。もしそうだったらどうしよう、といつものように思いながらも、氷の浮いたグラスを取った。
「ありがと。沢上」
「ちょっと休憩したら?」
「おうっ。つーか、お前も勉強しろよな」
 紫帆は大貴のとなりで、クロスワードの雑誌を解いているのだ。母親が趣味で毎月買ってくるらしい。紫帆はさみしげに微笑ってから、告げた。
「いいよ。いまの学校は、もう、やる気ないってゆうか。……あたし、引っ越すし」
 は?
 大貴はしばらく返事ができない。目を見開いて止まってしまう。
「いつ?」
「夏休みのおわり」
「マジで……どこに?」
「沖縄」
「そっか」
 大貴は頷いた。麦茶を飲んですこし落ちつく。
「じゃあ遊びにいく。海でもおよぎてーなー。俺、あんまし海っていったことなくて──」
「あははは。真堂……真堂はやっぱりすごいね」
 いきなりに紫帆は笑う。レモン色のシャツのお腹を押さえて。

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「真堂って……やっぱり面白いね。遠ッ!とか、そうゆう反応しないんだね。他の子たちみたいに」
「遠くねーだろ。沖縄なんて、ひこうきですぐじゃん」
 大貴は当然のように思っていることを普通に述べた。
「そっか、そうだよね……」
「外国いくんじゃねーし。つーか、遠いとか、近いとかはー、気持ちの問題じゃね」
「気持ち?」
「そーだよ。すげー会いたかったら遠くに住んでても会いてーし。べつに会いたくないヤツだったら、近所に住んでても会わねーじゃん。そういうもんだって」
 先程の大貴のよう、今度は紫帆が驚いた顔をしている。
「だから、おまえが沖縄に行っても、俺と沢上は遠くねーの」
「それ……ヤスエに言われたかったな……」
 驚きの表情は切なげに崩れて、それから、一気に泣き顔になる。
「さわかみ……!」
 紫帆がそんな顔をするなんて知らなかった。
 大貴はつい、紫帆の肩に触れる。
「ごめん。真堂。すごくうれしいんだよ。真堂にこんなこと言っちゃ失礼だとおもうけど、あたし、それ、ヤスエに言われたかった……」
 震えながらうつむく紫帆。目の前で泣いてしまうから、大貴も表情を曇らせてしまう。
「ヤスエはさ……真堂みたいに視野広くなくて……殻にこもってるから……あたしが沖縄に行くっていっただけで、世界が終わったみたいな顔をしたの」
 涙を拭いながら、紫帆は顔をあげる。
「そんなことないよね? 真堂。あたしがこのまちを離れただけで、世界は終わらないよね?」
「あたりめーだろ。そんなことあるわけねーだろ」
「だよね……よかった」
 安心したように、やっと微笑する紫帆。
 大貴は畳の上のティッシュを取って、紫帆に渡す。紫帆に対し、それくらいしかできない自分が歯がゆくもなる。
「ヤスエってやつ……ゆるさねー。もし会ったら俺、怒ってやる!」
 そう言うくらいで精一杯だ。
「ふふっ……ありがとう。でもヤスエは家庭があんまりよくなくて、」
「あー……なんか、それっぽいかも」
「だから、登校拒否になったり、ふさぎがちな性格になっちゃって……ヤスエだけ責められない」
「ふーん。でも俺だって、そんなイイ家じゃねーし」
 そうなんだ? と紫帆が聞きかえす。あまり詳しくは話せないから、大貴ははぐらかした。
「そうだよっ。まーいいや、俺のことは……」
 しんみりしてしまった空気のなか、家の前の道路で遊ぶ紫帆の弟妹たちの声だけが響く。
 彼らの笑い声を聞きながら、大貴はぼんやりと──
 僕と薫子おねえちゃんの距離はいま、すこし遠くなってしまっているのかなぁと考えた。