苦界の渦

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 久しぶりに登校した中学は祥衛にとって苦痛だった。ほとんど来ていないせいで授業の内容など分かる筈もなく、教師にも生徒にも腫れ物にさわるように扱われる。クラスメイトの瞳には畏怖の色が見え隠れし、担任の女教諭も祥衛に対しどのような態度を取れば良いのか分からない、といった様子だ。不良生徒などいないほうが、クラスは円滑に廻ってゆくのだろう。自分の居場所は此処に無いということを、祥衛は改めて認識する。
 もともと祥衛は昔から学校が好きではない。原因は小学校時代に遡る。幼い頃、祥衛はいじめられていた。女の子のような顔貌をからかわれたのがきっかけで、エスカレートしてかなり酷い目にも遭わされた。その思い出が未だ祥衛を縛っていて、教室に居るだけで嫌な気持ちになってしまう。
 あの頃祥衛をいじめていた少年達の多くも、同じ中学に進学している。彼らは今やいじめるどころか、怯えた態度を見せてきた。自分たちとは違い『ぐれた』祥衛のことを恐れているのだ。かつての報復をされるのでは、と危惧しているのかも知れない。
 お前らのように低能じゃないから、仕返しをしようなんて思ってない。祥衛は心の中でそう呟き、机に突っ伏していた身を起こした。そんな動作をするだけで、隣席の少女は怯えたようにビクリと震える。昔は見下され、今は恐がられる。急転した自分の身の上に笑えてしまう祥衛だ。
 そのうちに鐘が鳴り、三時限目が終了した。これ以上此処に居るのは無理だ──教室の空気にも、生徒達とも馴染めそうにない。祥衛は空っぽのカバンを肩に掛けて席を立った。すると、ちょうど教室の後ろの戸から見知った顔が覗いている。紫帆(しほ)だ。
「あーっ、様子見に来たら。ヤスエ帰ろうとしてる」
 紫帆は祥衛ほどではないが、髪を明るく染めて制服も着崩している。スカートは規定よりもずいぶんと短く、学校では禁止されているシュシュを手首にはめていた。そんな彼女に貼られたレッテルも祥衛同様『不良』だったが、ちゃんと登校はしている。祥衛のように孤立していることもなく、それなりに友人も居り、楽しい学校生活を送っているようだった。
 今日祥衛が此処に来たのは、他でもない、紫帆のため。彼女のしつこい誘いを断りきれずにしぶしぶ出席したのである。
 他の子供達と違い、紫帆は何かと祥衛を構う。今よりもちゃんとした生活をするようにと、いつも叱言をぶつけてくる。
「だめだよ。まだ三時間しかたってないんだから」
 祥衛を通さない、とばかりに紫帆は戸の前に立ちはだかる。祥衛は無表情のままでため息を吐いた。
「……どいてくれ」

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「イヤ! せっかく来たんだから、一日いなきゃだめ」
「むりだ」
「ムリじゃないよ、じゃあ、あと一時間。お昼までがんばろ?」
「……」
 妥協されたが、祥衛はもう帰りたくて仕方がない。これ以上、此処の空気を吸いつづけたら狂いそうだ。今もちらちらと刺さる生徒達の目線──彼らは祥衛と紫帆が何を話しているのか、興味津々らしい。ただでさえ男女の触れ合いに敏感な年頃なのに、自分たちと『違う種類』の目立つ生徒二人が喋っていたら、気になって仕方が無いのだろう。まとわりつく視線は祥衛にとって不愉快この上ない。
「俺に学校は合わないんだ……イヤでたまらない」
 本音を吐くと、紫帆はふうん、と言って腕を組んだ。校則違反の透明なマニキュアが塗られた爪に、祥衛の視線は落ちる。
「イヤでたまらないとか言ってもさ、ぎむきょういくなんだよ。みんな頑張って通ってるんだもん、それに勉強しないとー、将来困るのは祥衛なんだからねっ。計算とか、漢字とか、ぜんぜん分かんなかったらぜっったい苦労する!」
 紫帆の叱言が始まった。こうなったら長い。祥衛はげんなりとした心地になり、眉間に皺を寄せる。
「なによ、あたしが良いこと言ってあげてるのに、イヤそうな顔してっ」
 祥衛の仏頂面を見て、紫帆はさらに怒りだす。その時だった、廊下にけたたましい足音が響いてきたのは──
「待てー! 逃げるんじゃないー!」
「うわぁあうっせーまじうっせー! ついてくんなよっっっ!!」
 怒鳴る教師と少年の叫び。声の主の少年は紫帆を押しのけ、教室に雪崩れこんだ。きゃぁ、と紫帆が悲鳴を上げる。
「なにすんのよっ、強引!!」
「沢上(さわかみ)おはよ! だって河原(かわはら)がしつけーんだもん!」
 突如現れたその少年のことを、祥衛は怪訝な目で見つめる。どうやら紫帆と彼は知り合いらしい。
 少年は掃除具入れに身を隠す寸法だったらしいが、河原教諭の足は早い。少年が用具入れの戸を開いた瞬間、紫帆の後ろから顔を出した。
「小学生か、そんなところに逃げようとして」
「げっ。メタボのくせに足はえぇし」
「先生に対する口の聞き方か!」
 少年は河原により、頭を軽く小突かれる。

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「今何時だと思っとる。学校は八時半に始まるんだぞ、またこんな時間に登校して」
「あー、目覚ましが壊れててー、鳴らなかった!」
「お前んちの時計はしょっちゅう壊れるんだな?」
「生理痛っ。生理痛がひどくて起きれませんでしたっ」
「馬鹿者!! 昼休みに職員室来い。いいな!」
 河原は一喝し、もと来た道を去って行った。紫帆はくすくすと笑っている。
「また怒られてやんのっ」
「サイアク! ばっかやろーあいつ今に見てろよ、何かいたずらしてやる!」
 用具入れを閉じてもたれた少年は、拗ねたように口を尖らせていた。そして、やっと祥衛に気付く。
「あれっ。だれお前。転校生?」
 その一言に祥衛はむっとする。確かに自分はほとんど学校にはいないが、ひどい言葉だと思った。けれど祥衛もまた彼のことを知らないし、初めて会った気がする。
「入学式から、おんなじクラスだよ……!」
 紫帆は呆れたような表情で教える。少年はまじで、と大声を上げた。
「うっそだ! こんなやついたっけ、全然知らねー、会ったことねぇし」
「……それは俺のセリフだ」
 祥衛は少年を睨んだ。彼の目線は祥衛よりも上の位置にある。高めの背丈、亜麻色の髪、気の強そうな奥二重のつり目。中学生らしく地味に居ることを強制する学校という場所では、かなり目立つ容姿である。
「しんじられない! お互いにしらないなんて! 」
「まぁいいじゃん、今日からなかよくすればいーだろ。俺、真堂大貴(しんどうだいき)ってゆーんだ。よろしくっ」
 驚愕する紫帆の横、少年──大貴はにっこりと微笑んだ。人好きのする表情を浮かべながら、大貴は手を差し伸べてくる。握手を求めるように。
 だが、祥衛は大貴を無視してすり抜けると、廊下に出る。
「! ……おい、待てよ!」
 すたすたと早足で歩く祥衛に、大貴の声が響く。ヤスエ、と紫帆が呼んだのも聞こえた。けれど祥衛は歩をゆるめない。休み時間を過ごす生徒達の間を裂いて、逃げるように下駄箱へと向かった。
(うざいんだよ)
 祥衛は内心で呟いて、さっさと靴を取りかえる。
 どうせ、裏切るくせに。ああやって笑って近づいてきても、そのうち手のひらを返すくせに──これまでの人生で嫌というほど、祥衛は味わってきた。

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 同級生も、教師も、母の彼氏も、最初は笑顔で優しくしてくれた。けれど結末は全て、裏切りだ。
 うっかり信じてしまうと、捨てられたときに悲しさが増すだけ。授業の始まりを告げるベルを背に、祥衛は独り校舎を後にした。
  昼近い街はのどかだ。孫を連れている老人、買物帰りの主婦、ひなたぼっこをしているノラ猫、保母に引率されて歩いてゆく園児達──祥衛は無表情のままですれ違い、路地の奥に入っていった。
 狭い道に押し詰めて建つ長屋のうちの一軒が祥衛の家だ。古い木造の建物で、全体的に傾いている。次に地震が来たら崩れてしまうかもしれない、それほどまでにひどい建物だった。神山(かみやま)と書かれた表札も字が剥げてほとんど読めない。
 祥衛はこの家に物心ついたときから住んでいる。
 長年暮らしているが、鍵を使ったこともなければ、見たこともない。祥衛は立て付けの悪い引き戸を無理矢理に開けて中に入る。少しコツがあって、宙に浮かすようにして引っ張らないと戸は動かない。グギギギ、と耳障りの悪い音をたてて開けると靴の散乱した玄関に迎えられた。ほとんどが母のミュールやハイヒールで、派手な色遣いはいつ見ても不快だ。いつものように踏みつぶしながら土足で上がった。
 何故靴を履いたままかというと、家の中はゴミだらけなのだ。廊下にも部屋にも、ビニール袋に入れられた生ゴミや、コンビニ弁当を食べた残骸等が無造作に積まれている。酒瓶やビールの缶も転がっていて、ゴキブリはうぞうぞと繁殖していた。自分が散らかしたんじゃないから、祥衛は片付ける気にならない。それに片付けても、母親やその連れが来たらすぐに元通り散らかしてくれる。
「あー、おにぃちゃんだ……」
 二階の自室に上がろうとした処で、そう声がした。居間を覗くと、ハローキティの毛布にくるまっている妹の杏(あん)がいる。
「いたのか……」
「うん。おにいちゃんがっこう、めずらしいね」
 杏と顔を合わせたのは久しぶりだ。最近、母は杏を連れて彼氏の家に入り浸りである。寝そべっていた身体を起こし、杏は嬉しそうな表情を浮かべた。
「母さんは」
「だーりんのところだよ。あん、かぜひいちゃったみたいなの、だから置いてかれちゃったよ」
 母の性格をよく知っているとはいえ、祥衛は僅かに眉をしかめる。病気の我が子よりも男。
 それでも母は、祥衛に対するよりも遥かに愛情を持ち、杏に接している。可愛らしい服を着せ、欲しがる玩具を与え、時には動物園や遊園地にも連れてゆく。祥衛は母と一度も出かけたことがなければ、食事すらもろくに与えられずに育った。

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 その態度には父親違いとはいえ、兄妹とは思えないほどの差がある。
「だいじょうぶなのか。熱は……」
 祥衛は靴を脱いで、居間の畳に上がった。杏のそばにしゃがむと、小さな額に手を当ててみる。
「寝てないと、だめだろう」
 杏の体温は熱い。薬を飲んだのかと聞こうとして、杏の表情が曇っていることに気付く。目線は祥衛の手首に注がれていた。
 しまった、と祥衛は思う。左手首は包帯に覆われている。長袖のシャツを腕まくりをして着ているため、痛々しさがあらわだ。杏はそれを発見してしまった。
 見る見るうちに哀しみを帯びてゆく、杏の表情。杏は祥衛にリストカットをしてほしくないと言う。懇願する杏の姿につい、二度としないと約束をしてしまったのは先月のこと。
「またじぶんでやったんだ……あん、ゆったのに……切ったらだめってゆったのに……」
「杏、これは……ちがう」
 何が違うんだろう。言ってから、祥衛は自分で思う。一昨日ズタズタに刻んだのが真実なのに、妹を裏切ったのに。
「おにいちゃんにそういうこと、してほしくないから、あんいったのにぃいー、やぶったぁあ!」
 泣き出した杏を眺めつつ、祥衛は手首を押さえた。握りしめると痛む。そして涙を零す妹の姿が紫帆と重なった。祥衛のためを思って注意しているんだよ、いつもそう言ってくる紫帆と。
 舌打ちを零し、祥衛は立ち上がった。泣き出した杏に背を向けて居間をあとにする。
(うるさい、うるさいんだ……ウルサイ……俺のことなんて理解ってないくせに……余計なお世話なんだ……)
 二階に駆け上がって、六畳の自室に辿り着く。勢い良く襖を閉めると妹の嗚咽を遮断した。
(俺が……どんなに苦しいのかなんて、お前らは、だれも、知らないくせに……!)
 カバンを投げ捨てると、苛々にまかせて壁を蹴る。母やその友人、歴代の彼氏達によって落書きされた酷い壁。バカ、死んじまえ、刻まれているのはそんな言葉。
 学校でもイジメられ、家に帰っても虐待され、気の休まる場所ひとつもなく祥衛は育った。何も与えてもらえないから、万引きをして空腹をしのぎ、物を盗んで生きてきた。知らない男のペニスをくわえたり、わいせつな行為をして小遣いを得たことも多々ある。器量好しの祥衛は歩いているだけで声を掛けられ、援助交際を持ちかけられることがあるのだ。それが良いことなのか不幸なのかは未だに分からない。同性に売春までして生きるなんて、みじめな気もする。
 こんな日々が悲しくて、死のうと思ったことも一度や二度ではない。

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 ビルの屋上に足を運んだり、駅のホームで線路を見つめたり、何度も命を断ち切ろうとした。けれど踏ん切りがつかず、結局今まで生きてしまっている。
「……どうして俺ばっかり……」
 不幸な目に遭うんだろう。祥衛はいつも思う。俯いてぼろぼろの畳を見ていると、いつかの暴行でついた血痕が目に留まる。もちろん、これは自分自身の血。このまま死んでしまうかも知れない、そんなことが頭によぎるほど殴られたり蹴られたり、犯されたり、めちゃくちゃなことばかりされてきた痕だ。
 べつに、暴行の中で死んでもよかった。──何で生きてるんだろう。万引きとか身体売ったりしてまで、どうして食べたいんだろう、食べなければ死ねるのに。何故飛び降りれないんだろう。どうして生きてしまうんだろう。みんな俺に言っていたじゃないか「生きてる価値ない」とか「ゴミ同然」とか。あの女だって「なんで産んじゃったんだろう」「あんたなんていらない」ってよく言ってる。俺はレイプされて出来てしまった子だから顔見てるだけでムカつくんだって、

 ──じゃあ最初から産むなよクソばばあ。

 祥衛は学習机の上に置かれたカッターナイフを手に取ると、包帯の上に突き立てる。白いガーゼに鮮やかな赤が発色した。
(あぁいらいらする、いらいらする……)
 抑えられない感情をどう表していいのか分からない、そんなときは自虐に走る。めちゃくちゃに肌を掻き回すとすっきりした。血に染まった包帯を引き剥がして、傷の上に傷を刻む。祥衛の細い左腕はぐちゃぐちゃだ。
(いらいらするんだ!!)
 祥衛は表情を歪めた。悲しいのか、腹が立つのか、分からない。畳に倒れるとシャツを捲り、腹部もカッターでなぞってみる。引いた線に伴って痛みが滲んだ。
 痛い。痛いということは生きている。生きている自分が憎らしい。けれど深く切り裂く勇気は出ない。中途半端に傷つけて血まみれになっているだけだ。馬鹿馬鹿しい自作自演。そう、馬鹿らしいとは気付いている。窓から陽光が差し込むさわやかな天気の日にこんなことをしているなんて頭おかしいんじゃないかと祥衛は我ながら思う。
 学校では、今頃昼食の時間だろう。憧れはある。あの輪に入ってみたいとは思う。同世代の連中は楽しそうにしているなといつも遠くから眺めて、羨ましく感じている。
(でも俺には無理だ……)
 カッターを畳に刺した。何故か泣きそうな気持ちになってくる、けれど涙は出ない。そんなものとっくの昔に枯れた。
 血と痛みに包まれて倒れていると、杏の啜り泣きが近づいてくる。涙ぐむ杏は襖を開けて廊下に座りこみ、祥衛をじっと眺めていた。