存在理由

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 怜は電話をしている。どうやら仕事の話らしく、祥衛にその内容はよく分からない。値段、売買、そんな単語をベッドの上で聞いていた。
 彼の家はマンションの高層階にあり、部屋に案内されてからは、怜の作ったカルボナーラを食べて、シャワーを浴びて──人間らしいひと時を過ごせた。誰かの手料理を口にしたのも、温かいお湯を使うことができたのも久しぶりだ。祥衛の家はガスが止められていて、風呂では水を浴びている。
 こんなにしてもらって、小遣いまで貰ったら申しわけない。怜が話しつつ寝室を出ていったので、今のうちに抜け出そうと思った。カーセックスは前戯に過ぎず、此処でも存分に戯れて、頭がぼおっとする。何度も達した絶頂の余韻でだるいけれど、逃げるなら今のうち。
 薄暗い部屋で服を手探る。素早く身に付けると、扉のスキマから外を窺った。怜はまだ談笑している。
 広い家だが、出口の方向は分かる。祥衛は寝室を出ると走った。一目散にサンダルを履いて、玄関のドアを開ける。
 外は少し肌寒かった。廊下も駆け抜けて、エレベータのボタンを押す。丁度この階に停止していて、眼前の扉はすぐに開いた。乗り込んで、一階のボタンを押すと急降下して堕ちてゆく。
 ──ありがとう、と怜に言ってみてもよかったかも知れない。今さらながら祥衛は気付いた。あまり人に優しくしてもらったことがないので、どんなタイミングで発したら良いのかわからないけれど、今日の怜には伝えるべきだったのだろう。
 まぁいい、きっとまた彼とは逢うのだから。降り立ってエントランスを通り過ぎながら、祥衛は頷いた。その際に気が向いたら、言ってみればいい。
 ポケットの携帯電話を取り出してみると午前三時。いい加減、紫帆にメールを返すべきだ。というか、まだ文面すらも目を通していない。ため息を零しながら祥衛は画面を開いた。この憂鬱は彼女の心の痛みと向き合う罪悪感から来ているに違いない。
 無理に学校に来させてごめん。イヤな思いさせてごめんね──飛び込んで来た文章に、祥衛は眉根に皺を寄せる。どうして……紫帆があやまるんだろう。悪いのは俺なのに、すべて俺なのに。みんながしていることができない、なじめない、嫌われもの、うまくしゃべることも笑うこともできない俺が悪いのに。
 信号待ちで立ち止まって、大通りを交差する車のライトを目で追う。見ていると飛び込んでみたい衝動に駆られる。飛び込んだら、うまく死ねるのだろうか? 存在を消すことが出来るだろうか? そんなふうに考えてみてハッとして、死ぬことばかり想ってしまう自分に嫌気がさす。実際に行動に移そうとすると足がすくんで出来ないくせに。怖くなるくせに。臆病者のゴミ以下。

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 こんなにひどい目に遭い続けているのに、どうして死ねないんだろう。このまま不幸な日々を送り続けて、何が得られるのだろう。
 ど・う・せ 光なんて差し込まない毎日がこれからも訪れるのに……代わり映えのない……手首を切って親とか恨んで回りを少し嫉妬してみたりして、金がなくなったら万引きしたり売春したりして、学校にも行けずぶらぶらして時間を潰すだけの毎日。
 だったらもう終わらせればいいのに、まだ人生を続けようというのか、俺は。生きていたって紫帆を困らせたり心配させるだけだし、妹だって泣かせるし、だったらもう消えてしまったほうがいい。
 思考回路を廻していると、信号が変わった。祥衛は俯いたままで足を踏み出す。繰り返す黒と白のアスファルト。渡り終えると丁度目の前にコンビニがあって、喉が渇いた祥衛は誘い込まれるように、中に入った。
 死のうとすぐに考えるくせに水を求める。祥衛は矛盾を笑った。実際に表情に表すわけではないが、心の中では盛大に嘲笑する。
 祥衛はポカリスエットを手に取った。500mlのサイズを握りしめて、それだけを買う為にレジに行こうとする。だが、意外な存在が目の前を横切った。
(え……)
 祥衛の瞳は驚きに見開かれる。
 亜麻色は珍しい髪色だ。その背丈も、つり目の双眸も昼間見た『少年』と同一である。真堂大貴。少年がそう名乗ったのは記憶に新しい。まだ、半日前のことなのだから。
 私服を着ているが、紛れもなく彼であると分かった。所々裂かれたクラッシュデニムを履いて、黒のTシャツを着ている。ロックテイストなファッションは、年齢よりもやや大人びたもの。手首にはスタッズもはまっていた。
(どうして……)
 此処に彼がいるのだろう。戸惑って、祥衛は背中を観察した。この場所は学区から離れている。時刻だっておかしいし、普通の中学生がうろついているような時間ではない。湧き上がるのは疑問しかない。
 祥衛に観察されているとは知らず、大貴はゲーム雑誌を取った。カゴに放り込んでから、やっと祥衛と視線が重なる。
「! …おまえ……?」
 大貴も祥衛に気付き、瞬間は困惑の色を表す。だが、すぐに驚きの表情に変わり、零れそうに瞳を丸くした。
「すげーっ! ちょうぐうぜんじゃん。びっくりした!」
 本当に眼球が落ちてしまいそうだ、と思う祥衛に歩み寄り、大貴は嬉しそうな顔を作る。にこにこと笑うその表情は教室で見たものと変わらない、人好きのする笑顔だ。
「つーか、何してんだよ。三時半だぜ今っ」

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 その台詞を大貴にそっくりそのまま返したい。まじまじと観察を続ける祥衛は、大貴のカゴの中にも目線を落とした。雑誌の他に入っているのは、いくつかの菓子パン、チョコレート、果物を閉じ込めたゼリー……
「わかった、オールであそんでたんだろ? ふりょーだなーヤスエは」
「お前、こそ……」
 大貴は以前からの友人であるかのように、さらりと下の名前を紡いだ。呼ばれたことに違和感を感じつつも、祥衛は言い返す。
「俺も似たようなもんかな。つーかヤスエってまじかっこいいな、顔とかすげーきれい、もてそう!」
「え……」
 予想だにしないことを言われ、面食らう。大貴は笑顔のままで、先程祥衛が開いたショーケースを開けてコーラを掴み出した。
「沢上とつきあってんのか? おにあいじゃん」
「……そんなことない……」
「えーうそだし、だってー沢上、俺とヤスエで態度ちがうもん!」
 歩き出す大貴の後ろを着いていきながら、祥衛はどぎまぎしてしまう。クラスメイトに親しげに接されたことなんてほとんどないので、どうしたら良いのか分からず狼狽えるばかり。
「先どうぞっ」 
 大貴はレジの順番を譲ってくれた。祥衛は慌ててポカリスエットを置いて、財布から硬貨を出す指先も不自然になる。
「お前さぁ、沢上にちゃんと謝っとけよな」
 会計を終えてペットボトルを手にすると、大貴にそう言われた。
「ヤスエ帰ってから、ちょっと落ち込んでたぜ。元気なくしてた」
「……」
 やっぱり紫帆は傷ついているんだ──祥衛は俯いた。早くメールを返さなければならない。言い訳とか、気の効いた言葉とかを伝えないといけない。このまま無視を続けるわけにはいかない……それは分かっているのだけど……
「なぁなぁ、番号教えろよ」
 二人とも会計を終えて店を出ると、大貴は携帯電話を取り出していた。auの赤い機種で、幾つかぶら下がっているのは、何かのキャラクターらしきストラップ。
「……携帯は家に置いてあって。……番号覚えてない」
 祥衛は嘘をつく。
「まじでー。そっか、じゃあこんど教えあお。またがっこーくるよなっ?」
「たぶん……」
 クラスメイトに番号を教えるなんて、抵抗を覚える。そう、今こうして好意的に接してくれていても、いつ手のひらを返されるかは分からない。容易く信じることはできない。
「じゃそんとき。またな、ヤスエ」
 大貴は最後に微笑んで手を振り、十字路を渡って右に行った。また、何処かに行くつもりなのだろうか。彼のことが少し気になりつつも、祥衛は家路を辿りはじめる。距離はあるけれど歩いて帰ることにした。
 家に着くまでに、紫帆に伝える言葉が見つかるだろうか。

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 結局、紫帆にメールを返したのは昼過ぎだった。何度も文章を構築しては消しての繰り返しで、完成しても送信ボタンを押せない。一人きりの居間で悶々とした時間を過ごしながら、いっそこの世界に言葉というものが無ければ良いのに──そんなことも考える祥衛だ。どうしてヒトは喋る生き物なんだろう。だから色々と面倒が起こる。もし生まれ変わるなら動物がいい。昨夜公園で見かけたネコのような……次も人間に生まれるのはイヤだ。
 祥衛はため息を吐いて、年中出しっ放しのこたつに携帯を置いた。半日考えたのに『ごめん。』のみなんて、自分自身の頭の悪さに呆れながら。
 土曜日で学校が休みのせいか、紫帆からの返信は早かった。マナーモードの携帯が震えると祥衛はビクリとしてしまう。一体、どんな内容なのか。こわごわと掴んで画面を開くと、

『どうしてヤスエがあやまるの。わるいのはあたしのほうだよ。それより急だけど今から会お?』

 絵文字に飾られたその文面。いや、悪いのは俺だ、紫帆は謝らなくていい。そう思ったけどやっぱりうまく文にまとめられなくて、打った返事は『いいけど』の一言。すると、待ち合わせ場所と時刻が送られてきた。三十分後、中央公園で。実は、よく怜と会う場所は紫帆と会う場所でもある。
 アイドルがリゾート地ではしゃぐTVを消すと、祥衛は出かける支度をはじめた。昨夜から着ているジャージでは会いたくない。怜のつけている香水のにおいや、自分の精液がしみついているような気がした。
 デニムとカットソーに着替えて、鏡の前に立って髪をとかしたり、歯を磨いたり色々と気にしているとすぐに迫る約束の時刻。急いでサンダルを履いて、祥衛は家を出る。昨夜ぼおっとしてのろのろ歩いていた街を、今日は早足ですり抜けた。俊敏に目指せばあっという間に辿り着く、中央公園。
(もういるんだ……)
 ベンチに座っている、ショートパンツにレモン色のTシャツを纏った少女。膝の上には例のノラ猫がいる。祥衛が近づいてゆくと紫帆は顔を上げた。そして柔らかく微笑む。
「ねてた?」
 聞かれて、祥衛は首を横に振る。
「そっか。……ねぇなんか食べよっ、あたしまだお昼ゴハン食べてないんだ」
「……どこで」
「どこでもいいよ。祥衛といっしょなら」
 紫帆は立ち上がった。弾かれるようにネコはベンチを降りて、駆けてゆく。それを見て近所の幼い子供達がミーちゃん、と名を呼びながら追いかけていった。

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「そんなこと、いわれても」
 困ってしまう。歩きはじめながら、祥衛は地面に視線を彷徨わせた。きっとワリカンになるので、あまり高いものは食べられない。援助交際をして万札を持っている祥衛とは違い、紫帆の小遣いは親から貰うものだけ。
 祥衛が売春をしていることを紫帆は知らない。もちろん、教えるつもりもない。永遠に打ち明けたくない、紫帆への秘密。言いたくないのはうしろめたいのと、恥ずかしいのと、知ったらきっと紫帆は悲しむような気がするから。
「じゃあデニーズに行こーよ」
 結局祥衛は行き先を決められず、紫帆が提案する。
「今日はクリームソーダ飲みたい気分なの!」
 駅前の方角に向かいながら、紫帆は腕を広げた。風が、紫帆の髪を弄ぶ。シャンプーの香りがくすぐって祥衛にも届いた。きらきらと紫帆に降り注ぐ陽光、祥衛は少しだけ後ろ姿に見とれてしまう。
 紫帆は明るい。俺とはちがう。
 それなのに、どうして仲良くしてくれるんだろう。何度も迷惑をかけたり、心配させたり、時には泣かせたりもしているのに。どうして俺に冷たくしないんだろう? 学校にいる他のヤツらみたいに、無視をしたりしないんだろう?
 祥衛には分からなかった。でも、紫帆が隣にいると嬉しかった。心地よくて、気持ちが和らいで、紫帆と一緒にいるときは死にたいと思わない……。



 店に着いて、紫帆が選んだのは窓際の席だった。ガラスの向こうには賑やかな光景がある。休日の駅前はざわついていて、溢れるのは行き交う人々。車の通りも多くて、人間観察が好きな祥衛は往来を見ているだけでいつまでも時を過ごせるような気がした。
 食事はというと、さほど空腹を感じていなかったので春雨のスープを食べることにする。紫帆は海老フライのついたハンバーグのランチセットに決めた。もちろん、メロンクリームソーダも一緒に注文する。
 食事の到着を待つあいだ、紫帆は家族の話をしていた。紫帆は五人きょうだいの真ん中。上の兄と姉はとっくに就職して家を出てゆき、母と紫帆、それから弟二人で暮らしている。父親は、随分前に離婚して沢上家にいない。
 紫帆は弟達を可愛がっていて、彼らの様子をいつも楽しそうに話す。祥衛の知らない、温かい家族の絵がそこにはあった。揃って夕食を食べたり、みんなで何処かに出かけたり、裕福ではなくとも幸せな一家の姿がある。未知の世界の話だからか、祥衛は耳を傾けていると『うらやましい』を超えて『おとぎばなし』のように感じられてしまう。

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「ね、祥衛……」
 一足早く運ばれてきた、クリームソーダ。ストローから口を離した紫帆は、何かを言おうとする。けれど言葉はなく、唇は閉じられた。
「……どうしたんだ」
「あのね……」
 紫帆は話すのを躊躇っている。
「もしも、あたしがいなくなったら。祥衛はどうする? どう思う……?」
 唐突な問いかけ。突然すぎて、祥衛は質問を飲み込めない。伏し目がちな紫帆の顔を見ていると、丁度ウエイトレスがメニューを運んできた。
(紫帆がいなくなったら?)
 テーブルに置かれるハンバーグの皿、春雨の器。眺めながら祥衛はそれを考える。
「……分からないな……」
 幼なじみ。いつも一緒にいるのが当然の存在で、もしも消えてしまったらなんて考えたこともない。想像しようとしても、ぼんやりとしか思い描けなかった。
「なんで、わからないの」 
 紫帆は答えを欲しがっている。祥衛を目を合わせないまま、フォークとナイフを手に取った。
「なんでって……その……」
 これはどうやら、いつもと雰囲気が違う。祥衛は異変に気付き、こわばった紫帆の口許を見つめる。
「その……ふつうだから。紫帆がいることがふつうだから、そんな状態、考えたことがないんだ。だから、急に言われても……ピンと来ない、から」
 とつとつと紡ぐと、祥衛は自分もレンゲを掴む。白湯の香りがするスープは美味しそうで、さほど空腹を感じていなかったけれど、いざこうして目の前に置かれると食欲をそそられた。
「……食べないのか……?」
 紫帆は食事と向き合ったまま下を向き、動作を止めている。そのうちにフォークも指から外れてしまった。
「紫帆」
 一体、どうしたというのか。祥衛は心配になった。カラララン、大きな音が立ったのはナイフが床に落ちたからだ。回りの席に座っている主婦や学生の顔が、何ごとかと祥衛達のテーブルに振り向く。
「……ごめん、祥衛、あたし、」
 紫帆の声は震えていた。泣くのを我慢している、嗚咽をこらえているような呟き。
「あたし…………」

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「本当は、ちょっと前から、お母さんに話されてた。でも受け入れたくなくて、誰にも言いたくなくて……祥衛にも言えなかった……」
 紫帆はナイフを拾い、静かにテーブルに置いた。
「実はあたし、引っ越すかもしれないんだ。たぶん、決定でさ。沖縄に転校するみたい」
 ──言葉の意味を祥衛は理解出来ない。紫帆は一体、何を言っているのか。
「しょうがないんだよ。お母さんの体調がよくないから、お母さんの実家に帰ろうってことになったの。あたしと弟もいっしょにね」
 紫帆は、一体、何を、言っているんだろう。
 祥衛の頭はぼおっとする。予想だにしないことを告げられて、気が遠くなりそうな心地さえした。本当にこのまま意識を手放せたらいい。この時間は全て夢だったらいいのに。目覚めれば誰もいない居間で、コタツで眠ってしまっていて、紫帆からのメールはまだ来ない。そんな風だったら良いのに。
 けれど、どうやらこれは現実らしい。紫帆は悲しそうな顔でフォークも置き、箸で食事を摂りはじめた。ちっとも美味しそうではない顔だ。眉間に皺を寄せて涙を零しそうな表情で口に運んでいる。祥衛はそんな紫帆を見ながら、そうなんだ、と返事をした。それは力のない返事だった。
 そのあとは何と言葉を続ければいいのかわからない。祥衛も紫帆同様に食事をはじめ、レンゲに白湯をすくった。スープを口に運んでもゾッとするほど味がしなかった。さっきまでいい匂いをさせていたのに、今は何も感じない。
(転校……引っ越す……紫帆が?)
 食べながら情報を整理する。紫帆の漏らした言葉が脳を駆け回った。沖縄。転校、引っ越す、引っ越す……
「それだけ?」
 思考回路に声が刺さる。祥衛が顔を上げると、じっと見つめられた。
「言いたいことは、そうなんだ、だけなの……?」
「あ……」
 祥衛は困る。確かに何かを言いたい。紫帆に何かを伝えたい。でもそれをどうやって言葉にしていいのかまるで分からなかった。突然の告白を言い渡されてから、ふつふつと燃えるようなカタマリが心の内に形成されてゆくのが分かる。頭を掻きむしりたいような、自傷痕を引き裂きたいような、皿を叩き付けたいような、テーブルをひっくり返したいような……ああ、どうしてこの舌はうまく動いてくれないんだ、祥衛は紫帆を見つめ返しながら自らを呪う。

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「しょうがないんだろう。……体調がよくないなら……」
 紫帆の言葉の、ほとんどおうむ返しだ。本当は、もっと言いたいことがあるのに、叫びたいほどの衝動を感じているもう一人の自分がいるのに。
「……うん……しょうがないんだよ」
 紫帆もまた、祥衛の言葉を繰り返した。生気なく頷き、ハンバーグを食べながらさらにもう一度、しょうがないんだよ、と繰り返し呟く。
 それから会話が途絶える。土曜の穏やかな店内、祥衛達だけがどんよりとした空気を纏っていた。他の席では笑顔だったり、賑やかな会話があるのに、窓際の片隅二人だけが沈殿していた。せっかくの食事も、祥衛は元々の量が少ないため全て食べることができたが、紫帆は半分以上を残してしまう。飲みたがっていたメロンクリームソーダもほとんど減らず、バニラは混ざり合い溶けていた。
 無言のまま会計を終えて、外に出る。太陽の下で祥衛の意識はますます遠くなった。まだ脳は平静を取り戻していない。困惑し続けている。突きつけられた現実を認識できず、感情も混線してしまっている。
 何と言って紫帆と別れたのか、祥衛は覚えていない。用事があるだとか適当なことを言ったのは確かだ。本来なら紫帆のそばに居てやるべきだったのだろう。けれど祥衛は逃げ出した。昼下がりの駅前を放浪し、棲み家を忘れた魚の様に彷徨う。
 当たり前にあった存在が、日常が、消えてしまうなんて──引っ越すかもしれないんだ。たぶん決定みたい。あたし沖縄に。そう言った紫帆の声はいつまでもリフレインして、祥衛の心を揺らし続ける。