喪失

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 祥衛は街を彷徨った。半ば放心状態で、周りの風景もすれ違う人々も何一つ瞳に映らない。そんな姿はまるで夢遊病者のようだったので、ふらふらと歩く祥衛を訝しげに見る者もいる。虚ろに歩く途中、電信柱にぶつかりそうになったりもした。
 それでも祥衛はうろつき続ける。立ち止まってしまったら、その場に崩れてしまいそうだったのだ。それほどにショックを受けていて、まるで逃げるかのように──駅前通りを離れ、町外れへと進む。
 紫帆がいなくなるなんて、今まで考えもしなかった。予想だにしていなかった事柄を打ち明けられて、困惑を鎮められない。
 路地を迷っているうちに、しだいに落ちてゆく陽光。風景は陰影に満ち、少しずつ暮れなずんで来ている。
 祥衛の意識は未だ虚ろだったが、ガタンガタンと強い音がしたとき、ふいに現実へと引き戻された。目の前を列車が走り抜けていったのだ。気がつくと、線路沿いにフェンスが延々と張られた道に出くわしていた。
 ずいぶんと遠くまで来てしまった。祥衛の指は引き寄せられるよう、金網を掴む。しばらくフェンス越しに敷かれたレールと夕焼けとを眺め、ああ、もうすぐ夜が来るのだなと祥衛は何となく思う。夜が来れば、この心も少しは落ち着くだろうか?
(俺はなんて勝手なヤツなんだ。色々、注意してくれる紫帆を、うざいとか思ってたことも……何度もあるくせに……)
 彼女を鬱陶しく感じたこともある。それなのに、いなくなると聞いたらこのありさまだ。祥衛は自分自身を嘲笑った。
(でも……どうしてこんなにショックなんだろう……俺は……?)
 撫でる風に髪を遊ばれながらうつむく。何故、こんなに、悲しいんだろう。胸のあたりに穴が開いて、広がってゆくような感覚さえして、そしてその穴は真っ暗でがらんどう。
 瞼を閉じると紫帆の顔を思い出した。すっきりとしたつくりの顔立ちはとびきりの美人というわけでもないけれど、爽やかさのある、祥衛の好きな種類の顔だ。歳の割にしっかり者で、世話焼きで、明るくて、誰とでもすぐに打ち解けて──まるで自分と正反対。
 だから、俺は、惹かれるのだろうか。そう思ったとき祥衛は認識した。
 祥衛の中で紫帆という存在があまりにも他と違い過ぎることを。例えるなら、くすんだ灰色をした世界にたった一輪咲く鮮やかな花のような。
 確かに、紫帆には他の同級生とは違う何かをずっと感じていて、だからこそメールの文章でさえも無闇に打てないほどに意識していたのだけれど、今初めて祥衛は想った。



 俺は、紫帆が、好きだ。

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 気付いたところでどうしようもない。紫帆は沖縄へ行ってしまう。これをきっかけに、関係は疎遠になるかも知れない。
(紫帆にとってはいいことかもしれない。だって……俺といたって、紫帆には、めいわくがかかる……だけ、だから)
 友達や家族の前ではいつも笑顔の紫帆を、何度も何度も泣かせてしまった。祥衛がシンナーを吸っているところや、自傷をしているところに出くわすといつも涙を零す。ほうっといてくれ、その場の感情でそう叫んでしまったこともあり、すると紫帆は余計に悲しそうにして、嗚咽を漏らし啜り泣いた。
 引っ越して俺のことを忘れてくれればいい。そうしたら、もうきっと泣くこともなくなるから。祥衛は目を閉じて、しばらく風に撫でられていた。何分かおきに列車はけたたましく音をたてて祥衛の前を過ぎ去ってゆく。



 そうして、どれくらい佇んでいただろう。
 辺りが闇に馴染んだ頃、祥衛は頬からフェンスを離した。太陽はとっくに沈んでいて、傍らの街灯には仄明かりが点灯する。
 帰ろう……祥衛は静かに思った。やはり、昼間よりも夜のほうが、いくらかは落ち着く。
 列車の駆け抜ける音に背を向けて、街へと向かいはじめた。そういえばずっと煙草を吸っていない、祥衛はポケットに手を突っ込む。吸うのを忘れるほどに取り乱していたことを今さら気付いた。
 半日振りに味わうメンソールの味。いつもなら美味しいと感じるのに、まるで味がしない。
 下り坂に差し掛かると、彼方に見える駅前のビル群。散りばめられたネオンを眺めつつ、本当に遠くまで来てしまったことを悟る。こんな、町外れに来たのはいつぶりだろうか。
 吸い終わった煙草をはじいて、とぼとぼと影を引きずってゆく。
 今はただもう眠りたい。早く家に帰って、そのまま倒れ込みたい。あまりに衝撃を受けたせいか、いつもの自殺願望は姿をひそめてしまった。食欲もなく、ただただ夢に落ちたくて、そう考えていると自然と歩調が速くなる。
 しだいに景色は住み慣れた近所へと移り変わり、通う中学の校舎を過ぎた。中央公園を通り抜けて路地裏を行けば、祥衛の暮らす長屋がある。薄っぺらいトタンの外壁がぼろぼろと剥げた、朽ちかけているような家が。
 我が家が見えた瞬間、祥衛の眉はわずかにしかめられた。明かりがついている。窓ガラスに映る人影は母親のものだ。
 どうせ会話なんてしないし、視線すらも交わることはないだろう。けれど、彼女と同じ空間にいるというだけで鬱になる。

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 彼女は親であると同時に、祥衛にとって最大の敵。憎むべき女であり、悪魔のような存在である。
 山のように浴びた虐待の記憶と傷は一生祥衛を縛る。殴られて、蹴られて、火で炙られて、食事を与えられずに飢えて、閉じ込められて、寒さに震えて、めちゃくちゃにされて──数えればキリが無いほどに暴行を受けて来た。母は時には彼女一人で、時には情夫や友人をともない、幼い祥衛を蹂躙し続けたのだ。
 それはまさしく地獄絵図。祥衛の幼少期は地獄でしかない。楽しかったことなんて一つもなくて、血と傷と絶叫と涙と激痛と苦悶の日々。
 だから、全ての悪夢の元凶である母親には会いたくない。同じ空気すら吸いたくない。祥衛はアスファルトの上立ち止まって、しばらく窓の明かりを観察した。鉢合わせるのが嫌なら家には入らないほうがいい。でも、今すぐ部屋で眠りたい気持ちも強かった。祥衛は迷う。
 迷った挙げ句、結局祥衛は引き戸を開けた。母がいる居間は無言で通り過ぎて、さっさと二階に行けばいいのだ、そう自分に言い聞かせて廊下に上がると、
「祥衛ぇー?」
 珍しく、声を掛けられた。祥衛はビクリと立ち止まる。それは刷り込まれた条件反射のようなもので、長年に渡る虐待がそうさせた。昔、この家に彼女の友人や男が入り浸っている時代は即座に命令に従わなければぶん殴られていた為だ。
「アタシさぁ、今度引っ越すんだよねー、だからこの家引き払うからさー」
 女はヒョウ柄のワンピースを着ていて、いつもながらけばけばしい装いである。長い金髪は根本のほうが随分と黒く、煙草を持つ指先はネイルアートの爪に飾られている。爪は綺麗に整っているわけでなく、所々欠けたものがあったり、折れたものがあったり、それをそのまま放置している所が彼女のだらしなさを物語っていた。コタツに入っている身体の傍らには脱ぎ捨てた網タイツだったり、先程食べたのであろう弁当の容れ物が放ってある。
 杏の姿は見当たらなかった。彼氏に預けているのかも知れない。
「……引き払うって……」
 勝手なことを突然言い出すのには慣れているが、今回はあまりにも突拍子過ぎた。祥衛は眉根を寄せる。
「出てくってことだよ。アンタも出てって、他んとこ住めよ」
「何言ってるんだ、俺、そんな……行く所なんか」
「じゃあ公園に住んだらぁ」
 そう言ってから母親はキャハハハ、と下品な笑い声を上げた。祥衛は理不尽さに腹が立ったが、昼間のこともあってうまく頭が回らない。なんだか、今日は混乱することばかり起こる。

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 祥衛は居間から離れ、階段を上がった。そういうことでよろしくー、呑気な声が背後から響く。
 ため息さえ出ない。自室に入ると破れた古い布団を敷き、服のままで倒れ込んだ。疲れているせいか、ひどく眠い。瞼も、手足も、おもりを付けられたかのように重くて、沈むように深い闇へと吸い込まれる。
 眠りの中が一番幸せだ。祥衛は昔からそう思っている。嫌なことだらけの現実から離れられる。だからずっと寝ていたいのに、苛立たしくもこの身体は不眠症持ち。細切れに目覚めてしまうのは良いほうで、全く寝つけないことも多い。だからそういうときは睡眠薬を飲んで、強制的に夢に逃げる。
 今日の祥衛は薬なんて飲まなくても、容易く夢へと落ちてゆけた。突然の出来事に見舞われて、半日以上街を彷徨い、心も身体も疲弊しているからだろうか。落ちた先は今よりも子どもの頃。小学生時代の夢だ。
 ──祥衛はうつむいて歩いている。唇を噛んで、アスファルトだけを見ている。背後からははやし立てる声が響いていた。同級生達の、自分をバカにする声。
 何故こうしていじめられているかというと、たくさんの理由があるのだけれど──容姿が女の子みたいだからというのが発端だった。それに加え、祥衛はお世辞にも器用とはいえない。皆が出来ることが出来なくてまごついたり、うまく喋れないことも多い。どもったり、言葉に詰まっていると、からかわれた。
 原因はその他にもある。親に放置されているから、服はいつも同じもの。食事さえもまともに貰えていないので、給食の時間は嬉しくてがつがつと食べてしまう。薄汚れた身なりで懸命に食べる姿は、同級生達からすれば面白かったのだろう。当然、揶揄の対象となった。
 最初は笑われる位で済んでいたのに、どんどんとエスカレートする。突き飛ばされたり、髪を引っ張られたり、持ち物を隠されたり。やがては給食にゴミやチョークの粉を入れられるようになり、教科書もノートも破られて、靴にはどっさりと画鋲が注がれた。気付けばクラス全員がいじめに参加している。
 家に帰っても、学校に来ても虐げられる毎日。休まる場所のない祥衛の心は歪み、病み、陰鬱に染まる。教師は実態を知っているはずなのに何もしてくれない。見て見ぬふりをされつづけ、祥衛は大人の汚さを呪った。
 こんな生活を送っていれば、死にたくなるのも当たり前かも知れない。
 その日、祥衛はいつものように罵られながら下校路を辿る途中『本当に死のう』と思った。太陽がジリジリ熱く燃える、夏休み近い七月のことだ。どこ行くんだよ、と笑う同級生達と別れ、学区外へと歩いていった。遠足でしか行ったことのない、隣町に向かう。幼い思考にぼんやりと浮かぶのは、市境に流れる大きな河の姿。その橋の上から飛び込めば、死ねるんじゃないかと思いついたのだ。

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 やがてその場所、橋の真ん中にたどり着くと、おもむろにランドセルを下ろした。まぬけだとか死ねだとかオカマだとか、稚拙な落書きで埋め尽くされた哀れなランドセル。それを祥衛はなんのためらいもなく、河の流れへと放り投げる。
 バシャン! その音は今でも忘れない。飛沫が跳ねて、罵りまみれのランドセルが飲み込まれてゆく。刻まれた教科書ごと流されるそれを見つめ『……さようなら』と呟いた。さぁ次は自分もここから飛び込もう。欄干(らんかん)を跨ごうと手を掛けたとき、
『なにしてるの』
 知らない声に呼び止められた。振り向くと、同じ背丈の少女がいる。彼女の胸に刺さっている名札は、祥衛とは違う小学校のもので、沢上と印字されていた。
『……あぶないよ』
 少女は祥衛の手首を掴む。そう、その少女こそが──紫帆との出逢い。
「!!」
 夢の中の紫帆と目が会った瞬間、祥衛は現実に引き戻される。瞳を見開き、勢い良く身体を起こす。部屋は薄暗く、まだ夜が明けていない。
(シホ……)
 身体は汗にまみれていた。祥衛は額を拭い、べっとりと張り付いた髪を剥がす。呼吸が苦しい、どうして眠りはこんな夢を見せたんだろう、今日に限って。
 あの日をきっかけに、祥衛は学校に行くのをやめた。その代わり新しく出来た習慣は、夕方から紫帆と遊ぶこと。紫帆は祥衛をいじめなかった。酷いことを言ったりしない……初めての存在だった。
 気付けば、何やら窓の外がうるさい。話し声がして、時折笑い声が混じり、甲高いそれは母親のものだと祥衛はすぐに分かる。他にも響く複数のざわつきは彼氏や友達に違いない。祥衛は寝転がったまま、騒々しい声に耳をそばだてていた。車を横付けにしているらしく、コンポで流しているのだろう、流行曲の低音が響いてくる。まだ夜明け前なのに、近所迷惑だとか、そういうことも考えていない。
 そのうちに車は発車し、談笑もBGMも消えた。家の中に人が入ってくるような気配も物音もしないので、母親も一緒に出ていったらしい。祥衛はホッとして安堵を覚えた。念のため、立ち上がると部屋の窓を少し開けてみる。ガラスはヒビ割れてそれをガムテープで貼って直した無残な有りさまで、動かすと玄関の引き戸同様ギイィ、と耳障りな悲鳴を漏らす窓だ。
(だれもいない……)
 細く開けたスキ間から様子を伺ってみると、静かな路地があるだけだった。新聞配達をする男の原付が通り、どこかで吠える犬の声がする。
 そういえば、倒れ込んで眠る前に母は理不尽なことを言っていた。

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 祥衛は思い出し、眉間に皺を寄せる。この家を引き払うとかどうとか……疲れ切っていたからどうでも良く感じられて、居間を横切って寝てしまったけれど、今思うと大事(おおごと)だ。此処を追い出されたら、俺はどこに行けばいいんだろう。住む家がなくてのたれ死んでも、きっとアノ女は何も感じないどころか、笑って喜びそうだ。そう考えて祥衛は鼻で笑った。窓を閉め、自室に向き直る。
(俺には、なにもない。本当に『だれもいない』んだ……)
 薄暗く湿っぽい空間を、ぼおっと眺めた。紫帆がこの街からいなくなって、家も失ったら、いよいよ本当に孤独になる。教室で話す相手が見つからないとか、友達がろくにいないだとか、そういう孤独よりももっと深く黒い闇色の孤独。
(そうだ、杏は)
 闇を眺めていると、はっと唯一の光に気付いた。小さくて微かな瞬きかも知れないけれど、彼女は祥衛にとっては『光』だ。けれどそんな可愛らしい光さえも、悪魔達に持ち去られてしまうのだろうか。母は杏のことは大切にするので、きっと連れていくに違いない。
 ……紫帆だけでなく、杏とも離れ離れになるんだ。そりゃそうだ、杏は母さんに愛されているから一緒に連れていってもらえるに決まってる。俺と違って……生まれてこなければよかった存在理由なんてなにもない何処に行ってもゴミのような扱いしかされてない俺とは違うんだ、杏は。こんなクズみたいな俺とは違うんだ……
 祥衛はうつむき、ひどい虚無感に蝕まれてゆく。不幸は続くというけれど、不幸を味わうのは慣れているけれど、こうまで重なると生きる気力がますます削がれてしまう。祥衛が持つ生への執着など、蝋燭の灯火が頼りなげに揺れている、そんな小さな炎でしかないのに。
(死にたいな……俺はそればっかりだ……けど、今日は……)
 なんか、本当に死にたい。
 祥衛はよろけながら立つ。今ならば、全てが遠ざかってしまうという今この絶望の中ならば、憶病者の自分でも線路に飛び込めるような気がした。
 杏、俺はいなくなるから、新しいお父さんたちと仲良く暮らせばいい。
 紫帆、こんな俺と遊んでくれてありがとう、気遣ってくれてありがとう。沖縄に行ったら俺のことを忘れてしまえばいい。
 祥衛は静寂の階段を一段一段下り、玄関に行くと靴を履いた。財布も電話も持たずに家を出る。今から向かう場所は天国なのだから、そんなものは必要ない。