逃避行

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 この世界に神様がいるのなら、きっと神は残酷だ。
 もてあそぶように運命を操って、翻弄する。

 祥衛は薄闇の路地に立ち尽くした。飛び降りれそうなビルを探して、偶然に通りがかった道端。其処に停まっていたのは見慣れたBMWで、一人の男がちょうど乗り込もうとしていた処だ。他でもない、彼の姿は──怜。
「どうしたんだい、祥衛じゃないか」
 何故、こんなときに限って、出逢ってしまったのだろう。祥衛は戦慄する。何故このタイミングで。
 困惑する祥衛の脳裏にフラッシュバックするのは、あの日の濁流。川が運んでいった黒いランドセルを思い出した。あの時も、死のうとして、紫帆に引き止められて留まった。今もまた自殺場所を探して彷徨っていたら、怜に出逢った。断絶する意志を固めているときほど、こうして何者かによって、崩されてしまうのか。
 ……今日こそはうまく死ねそうな気がしたのに。簡単には死なせてもらえないのか……
「いやぁすごいね〜、俺達って赤い糸で結ばれているのかもね、なんちゃって」
 怜はすこしばかり驚いたようだったが、口調はいつもの呑気なものだ。
「どうしたのさキミ、今日はぼーっとしちゃって……」
 普段と何も変わらない彼を見ていると、祥衛は何故か力を無くしてしまう。ふらりとして、眩暈を感じて、膝からアスファルトに崩れた。突然のことにさすがの怜も驚いたのか、えぇっ、と戸惑うように声を上げる。祥衛のもとに駆け寄り、急いで抱き起こした。
「ちょっと祥衛。おかしいよ、ねぇ」
 怜の声は、祥衛には遠く聴こえる。意識が遠ざかってゆくせいだ。怜のシャツを掴むのがやっとで何もできない。ただ、頬に何か伝っているのは分かった。それが『涙』だということを認識したのは、彼の指に拭われてからのことだったけれど。
(なんで……俺は……)
 泣いてしまっているのだろう。わからない。もうなに一つ分からない……
 怒濤のように起きた出来事達や、積み重なってきた嫌な記憶、押し込め続けた感情。すべてが祥衛を取り巻いて押し寄せていた。心に溜まっていたものがこらえきれなくなって、決壊している。怜の胸に濡れた頬を押し付けた。

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 様々な思いを交錯させながら、祥衛はしがみつく。もう泣く事しかできない。涙を流すなんて何年ぶりのことなのか? 衝動のままにすすり泣いていると、背中に廻される腕を感じた。
「可哀相に」
 そっと呟かれる声色は、祥衛の耳朶を撫でる。
「キミは不幸だね。何処にも居場所がない。どうしていいのかもわからない。友達だっていないし、心配してくれる家族もいない」
 怜の言葉はすべて当てはまっていた。祥衛は震えてしまいながら、頷く。
「本当に可哀相だよ。おびえた小動物みたいな目してさぁ……」
 顎を掴まれ、上向けられる祥衛の顔。怜の視線と視線が重なる──彼の目は何の感情も映していない。口許には相変わらず薄笑みを貼り付けているけれど、笑っているのは唇だけ。瞳はどこまでも凍りついていた。
 しばらく観察されたあとで、強引な接吻を与えられる。祥衛は涙に震え、鼻水を啜りながらもなまめかしい舌を受け入れた。絡みつくねっとりとした生温かさと、唾液の蜜。されるがままにもつれていると、性的に呼び起こされてゆく。混乱して自我を見失っているのに、祥衛の中には快い微熱が燻りはじめる。
「そんなに辛いならさ。全部忘れてしまえばいいよ」
 唇を離して、怜は言った。
「くだらないこの世界の為にキミが傷つかなくて良い。嫌いなんでしょ。学校も、親も、そのほかも皆……全部憎いんでしょ?」
 ──その通りだ、憎くてたまらない。あこがれ、嫉妬、諦めといった感情を超えて、憎らしく思う。家に帰っても優しい親も温かい食事もなくて、教室に行ったところで誰とも打ち解けられない。近所の人が通報したらしく、いつか訪れたジドウソウダンジョの連中も、結局何一つ助けてはくれなかった。
「どうして嫌いなもののためにキミが手首を切らなくちゃならない。死ななくちゃいけない? 愛すべきものの為に死ぬのは美談かもしれないが、憎いもののために血を流すなんて愚かだよね」
 それも一つの生き方や選択かもしれないけど、と怜は続けた。薄笑みを浮かべ、祥衛の頬から指を離す。
「……幸運なことに、キミは淫乱だ」
 怜の視線は、祥衛の纏うジーンズの股間に落ちた。

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「あ……っ……」
 厚い生地越しになぞられただけで、祥衛は身体を跳ねさせる。
「ずっと快楽に溺れてればいい。現実は忘れろ。俺が飼ってやるよ、性玩具としてさ」
 クスクスと笑いだす怜の声は一層遠くなっていく。自分自身の心臓音だけがいやに大きく響いて、祥衛は呼吸を荒く乱す。視界が歪む。やまない嗚咽で苦しい。足許がふらつく──
「それでイイでしょ、祥衛にとっていちばん幸せな選択だと思うよぉ、イキつづけてやらしいことばっかして、淫らなこと以外何も考えられないような家畜に堕ちればいいんだよ。其処には悲しみも憎しみも怒りもない。ただ、あえいでよがってれば良いんだからね」
 怜の言っていることを“正しい”か“正しくない”か判断する思考はとうに失われていた。怜に抱きとめられると安堵に包まれ、そのまま瞼を下ろしてしまう。
「遅かれ早かれ、こうなるとは思ってたんだ。やっぱり、そうだったね」
 祥衛の意識は闇に吸い込まれてゆく。囁かれる言葉は聞こえなくなる。
「──だって、キミは昔の俺によく似ているからさ」
 怜の最後の言葉は、祥衛には届かない。夜明けの街角にて彼は祥衛にもう一度、そっとキスをする。ビルの谷間に映る朝焼けは美しく世界を彩り、怜の表情に陰影を落とした……

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 失った意識が再び浮上して、目覚めれば辺りは闇。
 置かれている状況を飲み込めず、祥衛は身体を横たえたまま戸惑う。柔らかなシーツの感触は明らかに自分の部屋ではない。ここはどこなのだろう。
 身体を起こし暗い部屋を見渡すと、空間に見覚えがあることに気付く。怜の部屋だ──
 どうして?
 俺は怜くんの部屋に。祥衛は額に手を当てる。寝ぼけた頭を整理しようと試みて、記憶を探れば蘇ってくる、今朝の事柄。
 ……自殺をしようと思った。飛び降りたくて、死ねそうなビルを探し街をうろついた。すると偶然に怜と出逢い、彼の姿を認識した瞬間に腰が抜けて、震えて、爆発した感情。この頬に零れた涙。
(俺が、泣いた?)
 祥衛はなぞる指を目許に動かしてみる。信じられない。涙なんて、とっくの昔に死んだと思っていた。この身体からは残らず蒸発して、消えてしまったものだと思っていたのに。まだ残っていたなんて。
(ウソだ。俺が……ありえない……)
 残虐な虐待に晒されていた幼い頃、耐えきれずに泣くと「ウルサイ」と言われ余計に殴られた日々。いじめられていた教室でも瞳をうるませれば「めめしい」「やっぱりおまえは女の子なんだ」などとからかわれたし、だから涙を漏らさないようにいつも我慢した。そんな風に生活していると、次第に表情一つ変えずにいられるようになったのだ、何をされても。
(いまさら。涙を流すなんて……) 
 怜に会って、確かに心がざわついた。動揺もした。でもうれしかったのだ。そう、嬉しかった。
(結局、俺は、死ねないんだ。死ぬことを引き止めてほしいんだ。誰かにすがりつきたくて、ほんとうは助けてほしくて……)
 抱きしめられたとき、ひどく安らいだ事実。シャツの感触、体温、香水のにおい。怜のすべてに癒された。
 祥衛は自覚する。怜に惹かれていることを。それは紫帆に対する感情とは異なる種類のものだ。けれど好意を覚えていることは確かで、そんな自分に困惑する。
(なんだか……急に、色々起きすぎて。俺はおかしくなってしまったのか……) 
 ため息を零して、祥衛はベッドから離れた。寝室の扉を開けてみると、家に人の気配はしない。怜は留守なのか、と思いつつトイレに行って、それから誰もいないリビングの椅子に独り座ってみる。

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 窓の向こうでは都会のビル群にきらびやかな光たちが灯っている。驚くべきことに、気を失った祥衛はずいぶんと永く眠っていたらしい。世界はひとまわりしてもう夜だ。いつもは不眠症なくせにおかしい。それほど、身体がバランスを崩しているということなのか。突きつけられた現実に耐えきれず、狂っている。鈍い頭痛がするのは眠りすぎが原因だろう。でも、眠れるものならもう一度眠ってみたい祥衛だった。夢に逃げたい。
 家に帰って睡眠薬を飲みたい、そう考えたところで母親の横暴を思い出した。家を引き払うと言った彼女。そうだ、帰る家なんてない……ひとつ思い出すと連想ゲームのようにするすると出てくる嫌な現実。紫帆がいなくなるし、杏とも離れ離れになるし……相変わらず学校には居場所がないし、お金を稼ぐ方法なんて盗むか大人と寝るかしかない……連想の最後はお決まりの『死にたい』
 でも、また、死ねなかった。こんなに現実が行き詰まっているのに終わらせられずにいる。だったら生きるしかない──生きるには盗むか寝るか、住む場所も探さなきゃいけない、唯一まともに人間関係作ってた紫帆もいなくなるから話し相手もろくにいない、妹もいなくなる、あぁもう嫌だ、こんな人生、死にたい。
『でも死ねない』堂々巡りの苦痛。
 祥衛はテーブルを拳で叩いた。唇を噛みしめる。
「なんで……」
 俺ばっかり。俺ばっかりこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。何のために生まれてきたんだ。何の存在理由があるんだ、俺に。もう嫌だ、嫌なんだ、こんな現実、全て壊してしまいたいこんな世界。そうだ怜くんが何か言っていたっけ、俺の耳元で。悲しみも憎しみも、怒りすらもない世界に溺れれば良いって──
 薄闇の中で夜景を見ていると、物音がした。玄関の扉が開く音に祥衛は振り向く。廊下の明かりが点いて、リビングに現れたのはこの家の主だ。
「あぁ、起きてたの」
 帰宅した怜はあっさりと言い、巻いていたストールをソファに落とす。祥衛は仕草を静かに目で追った。
「ずっと寝てたね。死体みたいだったよ、ぴくりとも動かないからさ。ねぇお腹空いてない?」
「……」
 祥衛が最後に食事を摂ったのは昨日の昼。けれど未だに食欲は湧いていない。
(紫帆……)
 思考が巡る過程で、紫帆の顔が浮かんだ。昼のデニーズで、悲しそうに震えていたあの声、好物のハンバーグを食べているのに少しも美味しくなさそうだったあの表情。辛そうに打ち明けられた、台詞の内容も。
(だめだ。思い出したら)

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 ハッとして思考を止める。紫帆を想えば辛いだけ。
 無意識のうちにうつむく祥衛に、怜は首を傾げた。
「どうしたの、祥衛」
 今は怜くんの言うままに溺れよう。
 それが正しいか、正しくないかなんてどうでもいい……とにかく現実から逃げてしまおう。
 死ねないけど、生きることもしたくない。残された道は“逃げる”ことしかないのだ……
「ハハハ。悩んでるのかい」
 祥衛の元に歩み寄り、怜は後ろから抱きしめる。しなやかな腕に締めつけられながら、祥衛は瞼を閉じた。
「まだ、堕ちる心の準備が出来ないの?」
 怜からの問いかけ。祥衛は首を横に振った。その動作に怜は微笑む。
「そうかい。決意したんだね。まぁ、どのみちキミには選択の余地なんてない」
 怜の長い指は、祥衛のカットソーをたくしあげた。素肌に触れられて祥衛は震える。撫でられると、こそぐったさと共に生まれる快さ。なぞる指先に乳首を摘まれて衝撃が走った。
「……!」
 そうされるだけで祥衛はひどく感じてしまう。抓るようにされ、愛撫というには強過ぎる刺激を与えられるのが好みなのは既に怜にバレていた。最近のセックスでは最中に軽く噛まれたりわざと引っかかれたりもする。
「祥衛ったら、マゾなんだから。……これからもっとマゾにしてやるよ。もっと変態なこと教えてあげる。最後は廃人になろうね、祥衛」
 身体を撫で回されながら囁かれ、祥衛は胸が熱くなった。廃人になるほどに犯してもらえる? めちゃくちゃにしてもらえる? 祥衛の吐息は早くも乱れ始める。バックルを外されてジーンズを剥がされ、現れた下着も既に膨らんでいた。発情を表している。
「いやらしいコだね、本当に」
 怜は見下すように言い、布越しに性器を掴む。優しくではなく、強く握りしめるように。もちろんそうされて嬉しい祥衛だ。
「れい……くん……」 
 潰されてときめき、怜の着ているシャツを掴んだ。怜は昂ぶる祥衛にキスをくれる。混ざりあう痛みと悦楽に、祥衛の身体は火照るばかり。

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 怜はそんな祥衛を丸裸にすると、お姫さまを運ぶようなやり方で抱きかかえた。寝室に運び、鍵を掛けると『もう逃がさない』そう思って薄笑みを零す。
 祥衛のような不良少年一人、世間から消えたところで誰も騒ぎはしないだろう。家庭で育児放棄されていても、学校にろくに顔を出さなくても、大した問題にならなかった今までと同じように。この少年が今日から姿を消してもきっと、消えたことすら気付かれないのだ。
「ホントに可哀相だな、祥衛」
 一糸纏わぬ姿で呼吸を荒げている祥衛を、怜は眺める。痩せ細った身体には幾つもの傷が刻まれていた。真新しい自傷痕から古いもの──虐待されて暴力を加えられた傷だろう──まで、様々な痕がある。
「でも俺はさー、祥衛みたいな不幸なコが好きなんだ。飢餓児童とか、死んだような目とかに萌えるんだよね」
 怜は呟きながら衣服を脱いだ。薄闇にあらわになる上半身。肌を重ねて愛撫を始めれば、怜の舌と指先に操られているかのように祥衛は良い反応を見せる。怜の思うがままに震え、アエギ、悶える。
 そんな祥衛を玩んでいると、怜は愉悦を感じた。
 祥衛には類い稀なる素質がある。怜が、初めて祥衛を夜の街で見かけたときに覚えた直感は、逢うたびに確信に変わっていった。祥衛は極上のマゾ少年。容姿も申し分なく、加虐者の性欲をそそる要素を幾つも持つ。
 祥衛ほどの少年なら、闇社会のオークションに出せば高値で競り落とされるだろう。無論、怜には祥衛の価値を今の状態より上げる自信もある。誰もが手を伸ばし欲しがるような性玩具へと、祥衛を躾け上げる自信が。
 弄んで愉しみ、飽きたなら……そう、売ればいい。
(俺は祥衛を利用しているんじゃないよ。祥衛にとっても好都合でしょ。お互いに都合が良い。俺は遊べて、祥衛は現実から逃げ出せるんだよ、永遠にね……)
 怜の思惑を知るよしもない祥衛は、ただただ貪欲に与えられる刺激を貪っている。埋め込まれる指に痺れ、抜き差しをされて内部を掻かれる度に鳴く。──寝室に響く嬌声。ペニスは頭をもたげ、充満した快感の証に垂らす透明な蜜。怜は蜜を指先に取り舌先で舐めてみせた。
「めちゃくちゃにされたいんだろう、キミは」
 味わいながら問いかけると、頬を紅潮させた祥衛は頷く。頷くというよりは、震えるようなわずかな動作だったが、確かに肯定の意志を表わした。