激情

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 秋にさらわれた健次は、冬の夜に帰ってきた。
 壮一はまさか息子が戻ってくると思っていなかったらしく、そわそわと狼狽の様子だ。相反し健次はどこまでも冷めきった目で壮一を見ていた。四季彩に行く前よりも、その視線が落ち着き払っているように感じるのは春江の気のせいではないだろう。

 一晩明ければ、健次は学校に向かう。他の家族と顔を合わせたがらない健次は、いつも早くに家を出る。今日も時間をずらして早めに食べると、さっさと行ってしまう。それを見送るのが、春江の日課だった。

「健次さま……」

 戻ってきた健次との日常を実感すれば、春江の心はきゅんと震える。学生服姿を見るだけで泣き虫の春江は目に涙を溜めてしまっていたくらいなので、玄関まで着いて行くと、ついに雫が伝った。またこうして健次の食事を作ったり、色々と世話をできることが、嬉しくてたまらない。

「どうした」

 健次は靴を履き振り返る。瞼を押さえている春江を見ると、微かに苦笑した。

「お前は本当に……泣いてばかりだな」
「ごめんなさい。嬉しくて、私……」

 健次は春江の手首を掴み、目元を晒させた。春江は健次の顔をまじまじと見てしまう。その切れ長の瞳を間近にするだけで、張り裂けそうにときめく。

「あ……」

 そのまま、強く抱きしめてくれる健次。
 春江は驚いてしまったが、温もりを認識した瞬間に頬が染まる。
 昨夜はずっと家族の目があったので、こんなふうに触れ合ったのは健次が帰ってきてから初めてだ。

 壮一と抱擁しても、何も感じない。それなのに──健次と同じことをすれば、とめどなく想いが溢れる。

 健次は軽くキスもしてくれ、指先で涙も拭ってくれた。それから、背を向ける。引き戸が開けられれば陽光差し込み、眩しさに春江は目を細めた。

「行ってくる」
「……はい。行ってらっしゃいませ」

 幸せだ。辛く地獄のような家だけれど、生活だけれど──健次がいればそれでいいと感じる。耐えていける気がした。一刻も早く壮一を消したい、などと焦らなくとも良いのではとさえ春江は思った。

 しかし、事件は起きる。壮一の最期を劇的に早める事件が──

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 健次を見送ったあと、春江は相沢家の面々と朝食を済ませ、洗濯物の入ったカゴを抱えて廊下を歩く。

 今日は快晴で、絶好の洗濯日和。物干し竿のある裏庭に向かう春江の視界に入るのは電話中の壮一。受話器を握りしめ、何やら深刻な表情をしている。横を通りすぎるとき、壮一は苛々と白髪頭を掻きむしっていた。

 裏庭に辿り着いたものの──様子のおかしさが気になり、春江は引き返す。壮一はちょうど通話を終えたところだ。

「……どうなされたのですか?」

 尋ねてみると、壮一は呻いた。粗っぽく地団駄も踏んでみせる。予想しない態度に、春江は思わずビクリとしてしまう。

「旦那さま、一体どうし……」
「美砂がぁ。大事な美砂がぁ、なにかの間違いだ!」

 駆け寄ると、壮一は両手で頭を押さえる。

「は、は、孕んだというんだぁあ、そんな馬鹿なッ!!」

 え……
 春江は目を見開く。
 孕んだ?

「ははははぁ、あはははァ、どこの、どいつだ? 儂の可愛い可愛い美砂を……」

 狂ったような笑みを浮かべ、ふらつきながら歩いてゆく壮一。その背中を春江は茫然と眺める。

「……あの子が、妊娠したというのですか?」

 こわごわと尋ねてみた。壮一は立ち止まると、壁を拳で叩く。

「そっ、そうだ、今、施設から連絡があってな。くっくっく何処の馬の骨だ、成敗してやる、叩ッ切ってやる〜……」

 不気味な笑いを零し続ける壮一の背後、春江はまばたきを忘れる。呼吸さえも忘れそうになる。骨が軋むような感覚にも襲われ、手足は痙攣しだした。

(そんな、そんな……ほんとうに?)

 憎らしい娘、美砂子。
 あの娘の血を引いた存在が生まれる?
 血が受け継がれる。
 増殖する。

 それはなんて



 苦痛──



(なんてことな、の、い、やよ。私……いや、だわ、認めない。そんなこと、絶対に、あの娘の存在だけでも狂いそうなのに!!!!!)

 春江は壮一の後ろ姿を睨む。かつてないほどに春江の表情は歪み、憎悪に染まりだした。

 この男がすべての元凶だ。

 壮一さえいなければ……美砂子は生まれなかった。
 健次が苦しむこともなかった。
 もちろん、春江自身も苦しまずに済んだ。

 春江の脳裏を一瞬にして埋める、健次に対する幼い頃からの様々な虐待風景。実の息子にすることではない、身の毛もよだつような凄惨な折檻と蹂躙……

(……そうね。やっぱり、殺すべきね)

 春江の中で理性は切れた。今朝方思った穏やかな気持ちは、音を立てて崩壊する。跡形もなく。

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 久しぶりの学校はだるく、健次は昼前に早退した。長く引きこもっていたせいか、一段と集団生活を鬱陶しく感じてしまう。秀乃に勉強を教えてもらっていたので、授業が分からないということはなかったけれど。

「つかさ、おかえりなさい」

 縁側を歩いていけば、庭に面して早苗が腰掛けていた。湯呑みに口をつけてから、健次にうっすらと微笑みかけてくる。いつものように視点はうつろで合っていない。

「……ただいま」

 健次はちらとだけ見て横切る。すると──散らばっている洗濯物と出くわした。カゴと湿ったままの衣類が、廊下でグチャグチャに乱れている。

(……春江?)

 あり得ないことだ。
 健次は眉間に皴を寄せる。
 胸騒ぎがしてその場に通学カバンを放ると、手当たり次第に襖を開け、障子を開けた。

「春江! おい、何処にいる!」

 嫌な予感がする。唐突にざわめく心のままに、健次は春江の姿を探す。

 見つけた春江は、壮一の部屋に座り込んでいた。柱にもたれ、割烹着を血で赤く染めて。

「……けん……じ、さ、ま……」
「春江!!」

 畳を汚す血痕を踏み、健次は春江に近づいた。膝を落として両肩を掴む。春江は苦しげな様子だ。

「ご、め……んなさい。ごめ……ん、なさ……」
「何があった、誰にやられた……!」
「……め……なさ……」

 涙を零し、意識を失う身体。健次は表情を歪め、春江を見つめる。

(どういうことだ、どうなってやがる……?)

 困惑したまま抱きしめていると、背後で響く物音。
 健次が振り向くと、日本刀を握りしめて立つ壮一がいた。

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「違う、違うんだッ。悪くない、儂は悪くない……!」

 健次と目が合うと、壮一は弁解をはじめた。壮一自身も狼狽えているのか、声はうわずっている。

「……お前がやったのか」

 健次は静かに尋ねた。壮一はひっ、と悲鳴をあげて後ずさりをする。

「お前がやったのか!」
「せ、正当、防衛だっ、春江が、春江が逆らうから、儂はッ」

 語調を強めれば、壮一はさらに動揺した様子だ。健次は壮一に憎悪の一瞥を与えてから、春江に向き直り視線を落とした。

「春江」

 瞼を閉じている春江の、乱れた髪を直してやる。

「……悪かった。俺が、もっと早くにあいつを殺しておけば、こんなことには……春江……痛いか……?」

 今、あいつを消してやる──健次はそう、胸の内で呟く。秀乃の部屋で描いてきた殺害の算段も計画もどうでもいい。段取りも手順もいらない、殺す。ただ激しく殺したい。

「もう終りだ、この、生き地獄も……」
 
 健次は、最後に強く春江を腕に閉じこめてから、静かに畳に寝かせた。立ち上がり、壮一に近づいてゆく。歩み寄りながら拳を鳴らせば、その動作を見て壮一は震えはじめた。

「春江が! わ、儂を殺そうとしたッ! 本当だ、健次。この女はロクでも無いぞ、どッ、どれだけ可愛がってやったと思って──…!」

 壮一はまるで隙だらけで、構える刀も意味が無い。健次は容易く、日本刀を叩き落とす。

「可愛がる……? 虐待の間違いだろ……」
「な、何怒ってるんだ、健次。そ、そ、そう怒るな」
「人間のクズが!!」

 思いきり蹴り付ける。衝撃に、壮一は眼球飛び出すほどに顔を歪ませ、その瞬間健次の中でありとあらゆる負の感情が爆発した。憤怒、悲哀、苦痛、すべてが今、開放される。春江が斬られたことで、耐えに耐えてきた精神は瓦解し、燃え上がる。

「死ね。死ね! 糞があッ!!」
「あ、ぁぐぅ、健……」
「俺の怒りが解るか……解るか! お前に、解るか……?! どれだけ俺が……! 消えろ!!!」

 壮一がその場に倒れても、健次は殴打を繰り返す。積年の憎悪を叩き込み、晴らしてゆく。

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「ハハハハハハハハハ!!!!」

 健次は笑っていた。
 
 燃え盛る焔の前で、笑いが止まらない。腹を抱えて笑い、あまりの愉快さに心は踊る。

 こんなに楽しい気持ちになれたのは生まれて初めてだ。おそらくこの先も、これほど愉快な思いは出来ないだろう。壮一を殺めようとする度に過った迷いがウソのようで、殺してみればあまりにも爽快すぎる。

 ズタズタに傷つけて虫の息だった壮一を庭の納屋に担ぎ込み、灯油を巻いて火をつければ、いとも容易く壮一を始末することができた──

「ハハハハ、ははははははッ!! 」

 今まさに、世界で一番憎らしい存在が消えてゆく途中。健次は笑いを堪えられないままで背を向け、くつくつと口許を抑えながらその場を離れる。

 すれ違うのは、納屋に向かう早苗。いつも痴れている彼女だが、今ははっきりと焔を瞳に映していた。

「あ、あ、あっ、ああ……」

 近くまで寄ると、早苗は立ちすくむ。燃え上がる紅に何もすることが出来ず、ただただ茫然としている。

 健次は春江の元に戻ると、すべてをあの母親の所為にしようと思いついた。早苗には恨みは無い。でも、母らしいことをひとつもしてもらえなかっただけでなく、認識さえされない。

 だったら、罪を被る位してもいいだろう? その位の役には立て。地面に崩れ落ちる早苗を遠目に眺めながら、健次はまた唇をゆるめた。

 相沢邸の周りには早くも、何事かと近隣の人々が集まってきている。誰かが通報したのか、響き渡るサイレンがけたたましい。