鼓動

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 二月、春江と美砂子は対峙していた。美砂子の暮らす施設からほど近い、田舎町の喫茶店にて──それなりに広い店内には、まばらに客が入っている。

「黙ってないで頼んだら?」

 春江は不機嫌なため息を吐き、美砂子の前にメニューを広げた。今日、洋装の春江はワンピースに合わせて巻き髪を下ろしている。

 向き合って座る美砂子はというと唇を結んだままで、春江の顔を見ようともしない。

 どこまでも頑なな態度に、春江は苛ついてしまう。壮一から受けた腹の傷は大事には至らなかったものの、まだ治りきってはいないのだ。怪我を押して、美砂子と今後のことを話し合うために来たのにも関わらず、口をきく気もないとは困る。

「……ママがころしたんだ……」

 やっと言葉を漏らしたと思えば、そんな一言。春江の眉根にはあからさまに皴が寄った。

「ケンジお兄ちゃんとラブラブになりたいから、パパはジャマになったんだ」
「馬鹿なことを! 早苗さんがやったのに」
「ウソつき」

 美砂子はじっと睨んでくる。

 気づけば、春江は衝動的に娘の頬を叩いていた。店内は静まり、他の客席からの視線が集中する──次の瞬間、美砂子は顔を覆って泣き出してしまった。

「パパをかえしてよッ。かえしてよ〜…!! うわぁああーっ……!!」

 グスグスと響く嗚咽。春江はあまりの苛立ちに頭痛を感じた。美砂子が着ているセーターは壮一が買い与えたもので、鮮やかなピンク色が春江の癪に障る。

「そんなことより、子供をどうにかして。一体、誰の子なのよ」
「そんなの、ママに関係ないもん……」
「関係あるに決ま──」
「絶対におろさない。名前だって決めたよ、セイシロウにするんだよ」

 清志郎。それは作家である壮一が自分の本で最も気に入っている作品の、主人公の名前だった。

「あんたって子は……!」

 春江は額に手を当てる。

 ああ……これが私の娘。

 生意気で、憎たらしくてたまらない。壮一に孕まされたという事実だけで愛すことは出来ない。美砂子に罪は無くとも無理だ。この娘を産んだ苦痛は忘れない、まだ十歳だったから。美砂子を産んだせいで、脅され続ける奴隷のような人生がはじまった……

「堕胎して」
 
 両目を塞ぎ、春江は命じた。この娘の命がさらに増殖するなんて考えただけでもおぞましい。

「イヤ! イヤだイヤだイヤだっ!!」
「堕胎さなきゃ、もう金なんて送らない。施設から、放り出してやる。二度と顔見せないでちょうだい」
 
 テーブルを叩くと、美砂子は潤んだ瞳を春江に向ける。春江の台詞に気圧されることはなく、じっと強く視線を送ってきた。

「……じゃあ、そうしてよ。ミサもママには会いたくない。さよなら……」

 美砂子は席を立ち、行ってしまう。

 それならもう、それでいい。美砂子の存在など無かったことにして生きていこう……それが過ちだったとしても、人の道を外れる行いだとしても。

 第一、種を蒔いたのは壮一だ、仕方がない、私は被害者だ。春江はそう思うことによって、胸によぎる微かな罪悪感を潰した。

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 廊下は暗く、静寂に浸されている。湯上がりの春江は寝巻きにしている浴衣姿で、しぃんとした廊下を歩く。

 あまりの静けさにどうしたことかと一瞬びっくりしてから、そういえばこの家にはもう健次と自分以外誰も住んでいないのだったとハッとして気づいた。時折、うっかり忘れてしまう自分に春江は苦笑する。

 業火を見てさらに精神をこじらせた早苗は警察に引き取られ、他の家族も事件の忌まわしさを気にしてこの屋敷を出ていった。大学生である健次の姉・美奈子は一人暮らしをはじめ、祖父母は遠くの親類の元に去った。

 だからもう春江と健次は二人きりなのだ。誰にも邪魔をされることなく暮らしていける。

 そのことを未だに信じられなくもある春江は、こうして寝室に向かう途中も、夢を見ているような心地でいる。誰もいなくなったので、同じ部屋に布団を並べて寝るようになった。まるで新婚のようだと思ってから……ひとりでに頬が熱くなり、春江は首をぶんぶんと横に振る。勝手に舞い上がって、恥ずかしい。でもそれだけ健次のことが好きなのだ。

 廊下の途中、縁側に座って煙草を吸う健次を見つける。中学の頃喫煙を怒った春江だったが、やめる気配がないので、部屋の中では吸わない、せめて換気扇の下だけと約束させた。その言いつけはきいてくれているので、許してしまっている。

 健次もすでに風呂を終え、スウェット姿。春江はそっと傍らに腰掛けた。夜の風はまだ肌寒かったが、庭の桜は蕾を見せはじめている。咲き誇る春はもうすぐだ。

 何も話しかけず、春江は健次の肩にもたれた。健次も何も言わない。やはり言葉などなくても心地よく、愛しい。

 春江の脳裏にふと浮かぶのはあの桜に襦袢ごと縛りつけられて放置されていた健次の姿だけれど、もうそれは過去の幻。すべて終わった──終わり方もまた、これまでの地獄にふさわしく凄絶ではあったけれど、終わったことには変わりない。春江は感慨深く瞼を閉じる。

 すると、髪を触られた。健次に頭を撫でられている。優し過ぎる触り方で、それだけで春江の涙腺は潤みそうだ。

「寝るか」

 感触が離れて目を開けると、健次は傍らの灰皿に吸い殻を潰していた。春江は頷いてから、健次の腕をぎゅっと掴んでみる。

「今日……お医者さまが。多少の運動ならば……してもよいと仰られたんです、健次さま」

 まだ湯船に入るのは止したほうがいいと言われているけれど、身体は綺麗に清めた。だから──春江は言葉を続けようとしたが、健次の親指に唇を止められる。ん、と息が詰まった。

「てめえから俺を誘うのか?」

 健次は穏やかに笑った。口許をなぞられながら、春江はその顔立ちを見つめてしまう。

「だめですか……? だって、ずっと……」

 長い間、健次に抱かれていない。遊廓から帰ってきてくれたと思った矢先、春江自身が怪我を負ってしまったので、本当にずっとしていない。口づけならば、飽きるほどにしたけれど……もっと続きをしたかった。

 健次のことが好きだから欲しい。はしたない女と言われてもいい、欲情したい。その腕の中に閉じこめられたくてたまらない。  

「駄目とは言ってねえ。ただ……」
「ただ?」
「歯止めがきかなかったら……俺を焦らした罰だと思え」

 健次は立ち上がった。灰皿を持って歩きだす背中。春江も身を起こし追いかける。

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 ひさしぶりに触れ合わせる互いの素肌、その感触だけで春江は濡れた。首筋をなぞられるだけで淫らな吐息を漏らしてしまう始末で、舌先が触れると電流が走ったように身が引き攣れる。

 ねちっこく執拗に弄る壮一に比べると健次の仕方は淡泊だが、嫌ないやらしさがなくて春江は好きだ。

 何しろ、壮一もその友人共も早く終わってほしいと願わずにはいられないほど、舐めたり摘みまわしたりと延々続く。彼らの抱き方にうんざりしきっているせいもあり、余計に健次との行為を好ましく思えてしまう。

 けれど流石に今宵は、健次も熱っぽい愛撫だ。春江と同じように、健次もまた欲していたのだろう。
 春江を指先で弄りつつも、唇から零れる吐息はやや荒く、伏せがちな瞳にも興奮を宿している。何より、健次の肉根は腹につくほどに反り返っていた。

 それなのに春江の身体の傷を気にかけてこれまで、求めるようなことはしてこなかった。優しさを改めて噛みしめる、灯りを薄めた部屋の中、色気のある健次の顔を見上げながら。

「触るか……?」

 ぐしょぐしょに蕩けた春江の膣から指先を抜くと、健次は春江の手首を掴む。その性器に気を惹かれていたことがばれたのかと思うと、春江は恥ずかしくなる。妙に頬を染めてしまいながら、引き寄せられるままに握ってみた。

「固い……です、はち切れそう……」
「いつから使ってないと思う」
「……え」

 上目がちに問うと、健次は秋からだと言う。そのせいなのかひどく充血し、先走りも多くぬめっている……春江にとっては愛しい滴りでしかなく、両手で包み込むと舐め上げた。

「健次さま、あの、若旦那さまと」

 軟禁を受けていたとき、数限りなくしていたはずではなかったのだろうか。驚きと疑問を感じる春江に、健次はふてくされたような表情を浮かべる。

「あいつには掘られるだけだ。キチガイが、俺を嫁扱いしやがる……」
「健次さまを? ふふっ、そんなおかしな話……嫌です。健次さまはこんなにも凛々しくて男らしくてご立派なのに……お嫁さんだなんて」

 屹立した肉棒から手を離し、春江は健次に身を寄せる。なめらかな筋肉を指でなぞり、抱きしめた。春江のほうから唇も重ねてみる。その口元は拗ねてわずかに尖っていて、めずらしく少年じみていた。

「遊廓に嫁がせなんて、させません。健次さまのお帰りになる場所はここです。私は、いつもお掃除して、ご飯を作って、待っていたい……」

 すがるようにして、けれども強く言いきって、春江は見つめる。健次は春江の視線を受け止めると表情を直し、ぎゅっと抱きしめ返してくれた。

「当たり前だ、あんなヤロウに嫁いでたまるか」

 また二人して布団に体重を沈ませ、倒れ込む。健次からの口づけを受けながらも、犯されて女扱いされても拗ねる程度でおさまっている健次に春江は少し驚いた。いつもなら、激怒しているはずだ。
 
 多少なりとも、健次が遊廓の若旦那を好いているということなのだろうか。……そうだとしても、嫉妬など春江には込み上げない。むしろ嬉しくも思う。健次には親しくしている同世代の人間がいないから、健次に友達が出来ればいいとずっと願っていた。

 健次からの愛なら痛いほどに感じている。これほどまでに想いを注がれて、守られ、誰にも見せないような素の表情も見せてくれる。何よりずっと寄り添って一緒に暮らしてきた、これまでもこれからも確信で満ちているというのに、何に嫉妬をすればいいというのだ。

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 褥の上、春江は悶える。

 抜き差しされる肉感は熱く滾り、擦られるたびに愛液と悲鳴が溢れた。真っ逆さまに堕ちてゆく感覚に貫かれている、シーツを掴んで激しさに溺れる。

「あぁ……、健次さま……!」

 揺らしつけている健次の表情も、熱をにじませていた。お互いの身体はひどく汗ばんでいて、じっとりと絡み合い、さらに境界線は曖昧になる。

「……好きだ……」

 肌を密接させ、健次は吐息混じりに零した。それを聞いてなおさら愛しくなり、春江は健次の両頬を手の中に閉じこめる。蠢く腰つきからは今もとめどなく熱と悦楽が溢れ続けていて、止まらない。

「わた、しも……です、大好きです、愛しています……!」
「……」
「ずっとお仕えしたい……!」

 交わす、もう何度目か分からない接吻。想いをぶつけあうようにめちゃくちゃに舌を絡めて、唾液を垂れ流した。口腔でも繋がりながら春江は健次の首に腕を廻す。体位が変わるとさらに身体は深部で合わさり、一つになった。

「あぁあ……、もう……ッ……」

 春江の意識はかすんでゆく。膣内の粘膜がとろけているのが春江自身にもわかる。幾度となく擦り上げられ、感じる部位を突かれ続け、絶頂はもう間近だ。

 同じ性行為といえど、壮一らとの行為とは比べ物にならないほどの充溢感に包まれている。身体の快感だけでなく、心のすみずみまでも満たされような幸せを感じる──

「イクのか、春江……」
「あっ、あッ、健次、さま、ぁあ──…!」
「気持ちいいのか……」

 間近で表情を覗き込まれ、春江はこくこくと頷いた。爪先を反らせ、ただ健次にすがりつき、快楽の極みに受けとめられる。

「!! あぁああっ……!」

 刹那、瞼を閉じた。頭の中は真っ白になり、びくびくと震えが止まらない。けれども抜き差しは止まらず、襲い来る波は未だ続き、春江はさらに恍惚へと飲み込まれた。

「あぅっ、あっ、ン、ふ……!」
「俺ももう……、く……ッ、あぁ……」
「け、んじ……さま……」

 春江から引き抜き、健次も達した。白濁の滾りは春江の腿に散る。半ば無意識のうちに春江は指先を伸ばし、滴りをすくって、自らの口に近づけた。

 舌先で舐めとれば久しぶりの味……後味までも愛しい。

 これからは健次の味しか知らずに、健次にしか肌を見せることなく、生きて行きたい。様々な男に廻され抱かれる日々には疲弊しきっている。もうたくさんだ。

 やっと手に入れた安息な時間を、手放したくない。そしてこの幸せが、命果てるときまで続けばいい……触れ合う肌から伝わってくる、健次の心音を聞きながら──春江の想いは祈りへと昇華した。

 どちらからともなくまた指先を絡めて堕ちる、濃密な行為の続き。ただただ味わい、互いの名を呼び、求め合う。何度も、何度も愛しさのままに絶頂に昇り、溶けてゆく。

 夜は長い。久しぶりの行為はいつまでも終わらず、薄闇の中で揺れる二人だった──