1 / 3健次は夜になると大抵、走りに出掛けた。喫煙は中学の頃に覚えたが、ずっとジョギングを続けているせいか体力も肺活量もさほど落ちていない。(なんだったんだ、アイツは……) 閉店後の商店街を駆ける脳裏によぎるのは昼間の出来事。いきなりに話しかけてきた、眼鏡の学生。初対面なのに向こうは自分の名前を知ってもいた。気持ち悪い男だ、そんな風に健次は思う。不可解で苛つく。 引っかかっているのは、彼が兎を殺したと語っていたこともあった。 健次も兎を殺したことがあるから。 虐待に遭うととてつもなくイライラして、幼いころは物を投げたり壊したり、周りの人間に当たり散らしたりしていたけれど。 そのうちに、犬や猫といった小動物を残虐な方法で殺すのにハマってしまった。火あぶり、串刺し、踏み潰して圧死……笑いがとまらなかった。理科室の塩酸をかけたり、窒息させたり、解剖したり、時には自分がされたのと同じように口と肛門に太い異物をねじ込んだりもして、憂さ晴らしを愉しむ。 そんなある日、目に付いたのが飼育小屋の兎。女子達が可愛がっているので、殺せばこいつらも同時に傷つけられると思うと胸が躍った、さっそくその晩に忍び込んで惨殺する。壮一の大事にしている日本刀を家から持ってきて、それでグチャグチャにした。白い綿毛に包まれていた愛玩動物は一瞬にして肉片と化し、健次は大いに満足する。久しぶりにすっきりとした気分になって、鬱屈した精神は癒された。 もちろん、次の日に登校すれば女子は泣いている。 ……ざまあみろと心の中で呟いた。何の苦しみも味わうことなくのうのうと暮らしているような奴らだ、お前等がどんなに傷ついたところで俺の傷には届くはずがないと断言できる。幼児の頃から突っ込まれ、遠慮なしに竹刀で叩かれたり髪を掴んで引きずり回されて、とてつもなく恥ずかしい目にもあわされる、無理矢理な激痛と屈辱と悲しみがお前等に分かるはずもないのだからこうやってたまには少しくらい傷付いてみるのもいいだろう、としか思わない。 出来事の顛末は、さらに健次を愉しませた。 飼育小屋に新しい兎がやってくると、生徒達は前の兎のことなどすぐに忘れてしまい、同じような名前をつけて可愛がる。 人間なんてそんなものだ。健次は嘲笑った。 泣いたりショックを受けたとしても簡単に忘れる。 代わりが来れば、それでもう満たされるのだ。 ……走り終えて、帰宅すると未だに離れの灯がついていた。 今夜は春江が呼び出され、弄ばれている。夕食を済ませてからすぐに連れられていったので、随分と長い凌辱だ。 気になったが、乗り込むわけにもいかない。健次は軽くストレッチを済ませ、風呂場に向かった。 けれど、湯船の中でも心配な気持ちが渦巻く。 いざ虐待に遭うと張り裂けそうなほど腹が立ってむかつく癖に。春江がされていると代わりになりたいと強く感じる。春江が傷付くくらいなら、俺が傷付けばいい。いつも健次はそう思う。 2 / 3パジャマにしているTシャツとジャージを着ると、タオルを肩に掛け、縁側に踏み出した。夏が近づきつつあるとはいえ、夜はまだ涼しい。向かったところでどうにもならないのに。助けに入ることは出来ないし、もし行動に移しても壮一に笑われて終わり。あの男は、健次と春江の情愛を面白がっている節がある。 それなのに様子を窺いたいという気持ちを抑えられなくて、健次は歩く。自分の行動を侮蔑した、春江が絡むと俺は愚かになる。そもそも、春江を庇いたいが為に虐待を受け入れているのだから。あんな女どうでも良いと思えさえすれば自分だけでも救われるのに…… 廊下を進んでいくと、灯の消えた離れが見えた。風呂にいる間に済んだのだろうか、健次はほっとした。 それならば大丈夫だと思い、踵を返して自室に行こうとする。 が──… 啜り泣きの声が、どこからか聞こえた。 (春江……?) 健次は再び歩みはじめる。 曲がった所で、すぐに彼女の姿は捉えられた。 「……おい」 春江はぐすぐすと泣いている。しゃがみ込み、泣き濡れている。長い髪は風に煽られ、はだけた襦袢から素肌を覗かせながら。 「何してやがる。こんな所で……」 近づいて、腕を掴んだ。引っ張ってやると、春江は力なく身体を起こす。胸の谷間を隠すように布地を上げつつも、涙を拭う動作を見せた。 「健次さま。どうして……」 「お前の帰りが、遅いからな。気になった……それで……見に来た」 理由を話すと、春江はさらにぼろぼろと涙を零す。潤んだ両目に見上げられると、健次の心は痛む──可哀想にと思った。 「健次さま、健次さま……!」 春江は、健次に抱きついてくる。 戸惑いつつも、健次も抱きしめ返した。 「どうしたんだ……」 「大好きです。私……!!」 「春江……」 此処で触れ合っていたら、壮一を含め、家族に見つかってしまうかもしれない。それは嫌だけれど、今の春江を振り払うことは出来なかった。相当酷い目に遭ったのだろうか。 「泣くな。お前は本当に泣いてばかりだ」 「ごめんなさい……」 「……早く風呂に入って来い」 精液の香りのする髪を撫でてやってから、健次は離れた。歩きはじめると、春江の足音が遅れて続く。 「心配をかけてしまって、申し訳なく思っています、健次さま……」 春江が無事ならそれで良い。そんな風に言おうとも思ったが、不器用な健次は言葉にまとめられず、無言のままで自室に戻る。 閉めた戸にもたれ、健次は眉間に皴寄せた。春江のことを守りたいのに──支えになってやりたいのに、うまくできていない気がして。 3 / 3壮一を殺すしかない。春江を守るためにも、自分自身のためにも。健次の中でその思いは日に日に育っていくばかりだ。殺せば、生き地獄から開放されるだろう。「つかさちゃん、はやいのねぇ」 今日も学校を早退して、帰宅すれば母親・早苗に声を掛けられた。居間でお茶を飲む彼女は、うっすらと微笑んでいる。 「おかえりなさい。つかさちゃん……」 生後間も無く病死した長男に酷くショックを受けた早苗は、精神の歯車を狂わせ、壊れた。健次のことも亡くした息子・司だと信じている。 「あぁ……ただいま」 認識されない事実に健次は傷つけられ、幼い頃はとても悲しくなったりもしたけれど、早苗に悪意はない。 虐待の事実に気付きながらも無視を貫く祖父母や姉よりも格段にマシだ。だから、他の家族とは口もきかないが、早苗には普通に接している。 居間を通り過ぎれば、憎い父の姿が見えた。 庭にて呑気に盆栽の手入れをしている。後ろ姿を見るだけで沸き起こる叩き壊してやりたいような衝動…… 憎悪や怒りは日に日に健次の精神の中で膨れ上がるばかり。灼熱を焦がすかのような途方も無い苛立ちを感じ続けている。 我慢はとうに限界線を超えていて、耐えている事実が奇跡だと我ながら思っていた。 (糞が。アイツがいなければ。俺も春江も……!) アノ男など、簡単に息の根を止められるのに。背後から襲えば命などすぐに奪えるだろう。 (俺は……何を迷っているんだ。殺したいとずっと思っている。何をためらっている?) ギリ、と奥歯を噛んで拳を握りしめた。 苛々と殺害を考える思考は、胸の中で熔岩のように煮えたぎっている。それなのに。 (他のものなら簡単に殺せるのに。実の親、だからか……? 俺はまだヤツを、親だと思っているのか? ……) 困惑の余り頭痛を感じる。 健次は殺意を抱きながらも、壮一を仕留められない。 |