糸を引く蜘蛛

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 健次は教室の窓際席でだらりと椅子に凭れ、グラウンドを眺めていた。

 休み時間の賑やかさは、健次にとって鬱陶しいものでしかない。二学期を迎えた今になっても、クラスメイトの名前どころか顔もよく解らない。会話すらほとんど交わしたことがなかった。

「おーいっ! 健次君!」

 ふと、呼ばれて廊下を見ると、手招きする越前谷秀乃がいる。その姿を認識するなり、健次は溜息を零してしまう。

 無視したいところだが、何度も名を呼び続ける秀乃に仕方なく健次は席を立った。苛立ちに表情が歪む。
 
 突然の生徒会長の登場で、クラスはざわめく。しかも孤立を貫く健次を親しげに呼んで居るので、生徒達の驚きは倍増らしい。何事かと健次と秀乃を交互に見たりする者もいる。

「……何の用だ」
「久しぶりだな、健次君。夏休みの間は何してたんだ? 元気してた?」
「キサマに関係ないだろう」
「関係あるさ、俺は健次君と親密になりたいって思ってるんだよ。今度俺の家に遊びにおいでよ」
「断る」

 この男は一体、なんのつもりで絡んでくるのか。
 健次は不可解さに拳を握りしめ、秀乃の腹部に向けてめり込ませた。

 警告なら、前に一度しておいたはず。眼鏡のレンズに火を押しつけた。それでも分からないのなら痛みを与えるしかない。

「う、ぐ……っ…!」

 秀乃はその場に崩れ落ちた。キャアア、と廊下に響く、辺りの女生徒の声。健次は冷ややかなまま、倒れる秀乃を見下す。

「大丈夫か、越前谷!」
「おい! 相沢!何をやっているんだ!」
「相沢ッ! 聞いているのか」

 教師達の声が交錯し、生徒達の狼狽えた瞳に貫かれながら健次は口許にうっすらと笑みを浮かべた。

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 壮一は今宵も遊廓・四季彩に向かった。自らの欲望を満たし、愉悦を味わうため。

 送迎車を降りると、石畳を踏み、建物内に入る。薄明かりのロビーには秀乃の姿があった。早い時間だからか、他の客は未だ居ない。

「相沢さん、いらっしゃいませ」

 秀乃は一人掛けのソファに座り、膝の上の黒猫を撫でている。越前谷家で飼われる伽羅という名の猫だ。

「おお、若旦那」
「今夜も良くお出で下さいました。ところで健次くんは元気ですか?」

 尋ねる秀乃の、眼鏡の奥の瞳は柔和に微笑う。

「謹慎になって学校を休んでいるから、今どうしているのかなぁと思いましてね」
「えッ? 学校、とは?」
「同じ学校なんですよ。俺と健次君は。ご存知じゃありませんでしたか」

 心底驚いた様子で、動作を止める壮一を見て秀乃はますます笑んだ。歪む口許からはくつくつと声が漏れる。

「もしかして、謹慎になったことも知らないんじゃないですか。貴方は性的な目でしか、彼を見ない」

 秀乃の言葉は正しかった。壮一は、健次の普段の様子や生活に興味がない。

 そして秀乃が続ける言葉は、壮一を更なる驚愕に叩き落とす──

「健次君は俺を殴ったんですよ。それで、謹慎になったんです」

 猫を床に払い、めくられる薄手のニット。秀乃の腹部には確かに鮮やかなアザがある。

「学校に問い合わせれば真実だと分かりますよ。ねえ、相沢さん。これは大問題じゃないですか?」
「あっ……あッ…!」
「四季彩の正当な後継者に、貴方の息子が暴力を振るったんですからね」

 壮一は青ざめ、ガタガタと震えだした。賠償金、出入り禁止、様々な懲罰を考えているのだろう。秀乃は笑んでいるままだが、その表情にはどこか冷酷さも含む。

「け、健次がそんな……そんなことを……」
「俺の言う事をひとつだけ聞いてください。聞いてくれたなら、この件は他の一族にも、誰にも内密にしましょう」

 申し入れに頷く壮一に、囁かれたのは。



 ──健次クンヲ、俺ニ下サイ……

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 このまま遊興に耽ることもできず、壮一は帰宅して健次を探した。息子の名を叫びドタドタと駆け回る。

「とんでもないことをしてくれたな! この糞餓鬼が!」

 廊下で出会った健次の耳を引っ張り、その場で殴り飛ばした。突然の暴力に慣れている健次は何も言わない。表情を変えもしない。それがまた壮一の癪に触った。

「学校を謹慎になったそうじゃないか、わ、儂は知らなかったぞ!」
「……てめえには関係のないことだろう」
「なんだ、その口の聞き方は!」

 感情に任せた殴打を何発も浴びせ、健次を板張りの床に崩れさせる。健次は唇を拭った。一発が口許に当たった際、切れてしまい血が滲んだのだ。

「お前は、俺の顔に泥を塗ったんだ!! よりによって、越前谷家のご子息を!」
「越前谷……?」

 己の血を眺めながらも、健次は尋ねる。名字は健次にも聞き覚えがあった。

「お前が殴った相手は……四季彩の経営者、越前谷家の若旦那、秀乃様なんだよ!!」
「! ……」

 健次も、四季彩の存在は知っていた。壮一が好み、足しげく通う遊廓。

 だが、まさかその場所と、あの生徒会長とが一致するとは──

「本当か……」
「誰が嘘を言うんだ! クズ、馬鹿め、お前は、最悪な事をしでかしたんだ!!」
「痛ッ……!」

 足蹴は止まらず、畳の上で踏み付けられる健次。この野郎、畜生、などと罵りながらめちゃくちゃに蹴る壮一だったが、血に気付くとハッとしたように止めた。

「?」

 突然に暴力が止み、健次は不思議そうに壮一を見上げる。壮一はというと震えながら何事かブツブツと呟きはじめた。

「いかん……お前に傷を付けては許して貰えなくなる。お前を差し上げなければいけないのに……お前を差し上げて俺は許される、許されるんだ、何事も無くこれからも穏便に行くんだお前を差し上げて全て丸く穏便に穏便に穏便に許され俺は俺だけは許され許され許されぇ………………」

 月明かりに照らされながら、まばたきもしない壮一。
 気が違っていると健次は思った。
 幼い時から時折、彼からは狂気を感じる瞬間がある。
 今もまさにそう。

 健次はくつくつと笑ってしまう。
 あまりにも可笑しくて。

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 何故、このような男の息子なんだろう。
 何故、虐げられ、従っているんだろう。
 すべてが、健次には阿呆らしく感じた。

「何を笑っているぅ!!」

 健次の笑みに気付いた壮一は、怒鳴りつける。その怒声も、健次にとっては滑稽なのだったが。

「あなた、お客様ですよ、越前谷さんがお迎えに来ました」

 近づいてきたのは早苗だった。相変わらずふわふわとした雰囲気で、彼女もまた痴れている。瞳には物事がろくに映っていない。

「まあ、綺麗ね。今夜はお月さまが。つかさ、綺麗ね。ね、あなた……」

 妻に気付くと、壮一は少しばかり平静を取り戻した。健次を睨み付け、強く言い放つ。

「わ、若旦那の言う事には何でも従うんだ! 死ねと言われたら死ね! 奉仕しろと言われたら奉仕するんだッ。無礼を働いたら春江をただじゃおかないからな。この糞……」

 最後まで話を聞かないまま、健次は歩き出す。

(面白れぇ……アイツが四季彩の若旦那だと?)

 あの生徒会長は、客の息子だと知ったうえで近づいてきたのだろうか。苛立たせるような言動もわざと? 何処からか、仕組まれていたのか。しつこく纏わりつかれて手を上げてしまったことも、向こうからすれば計算通りなのか?

 秀乃はどんな顔をして迎えるのだろう。本当に玄関前には黒塗りの車が止まっていた。健次はドアを足蹴にし開かせる。