薄氷

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 外灯などほとんどない、暗闇に近い郊外。
 健次は表情を変えないまま、時速180キロで走る。

 追ってくるのは、昼間、工場廃墟をうろついていたのとおなじ連中だろう。
 彼らの目的はきっとこの少年。
 少年を奪おうと狙っている。
 健次は、彼らを操る黒幕がだれなのか、予想済みだ。

(アイツは慎重で、頭がいい。こんな風に表立って突っこんでくんのも、珍しい……)

 相手は、きっと派手には動かない──動けない。
 どうせすぐ手を引く……健次の予想は当たる。
 景色に海が見えてくる頃、カーチェイスはあっけなく終わった。尾けてきていた、黒塗りの車群は散るように去る。

(これがお前の限界か、克己)

 健次が運ぶまでもなく、当初の予定通り、怜の手腕でも振りきれたかも知れない。
 スピード狂なら、怜のほうが上手だ。
 警戒しすぎたか、と思う。
 しかし、警戒はしておいて無駄ではない。
 それは健次の幼少期に裏打ちされた、ある意味、トラウマだった。

 速度をゆるめ、煙草に火をつける。
 待ちあわせ場所はもうすぐ。
 風景は港に差しかかっていて、望めるのは、さざめき揺れる夜の暗い海。

「……も、だいじょうぶ、なの……?」

 少年は起きあがり、弱々しく尋ねてくる。

「多分な」
「うぅ、ちょっと酔ったぁ……」
「…………」

 少年を手に入れてみたかった、克己の考えとは?
 なにが彼を動かしたのか。
 もっとも尋ねたところで、本音を明かすことなど無いだろうが。

「わぁ、すごーいっ、海だぁ……!」

 売られるというのを分かっていない少年は景色に歓声をあげた。呑気なものだ。
 驚くほどの淫靡さを見せても、まだ子どもである。

 停泊している大型フェリーが、今宵の会場だ。
 月明かりの下、白いその姿は不気味かつ、威風堂々としている。
 雑然と詰まれたコンテナの群れに潜ませるよう、健次はインプレッサを停車させた。

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「ひゃぁっ」

 首輪に鎖を繋ぎ、引きずりだすと、少年は悲鳴をあげる。しかし、ずいぶんと成長した。
 それ以上はわめくこともなく、黙って健次に従う。
 時折つまづきそうになりながらも、素足でコンクリートの地面を歩いて。

 人間以下の奴隷犬という自覚は、すこしずつだが着実に芽生えてきているのだろう。

「やあ、健次……定刻通りだね〜」

 船へと向かう道筋の途中、声をかけられる。

「それとも『JOKER』って呼んだほうがいいかい。今宵は公式な宴だからさぁ」

 間の抜けた話しかたは、いつもどおり。
 健次は眉間に皺を寄せ、声を睨む。

「ふざけた呼びかたはよせ『QUEEN』」

 物陰から姿を現す長髪の男。
 クイーンの呼び名に相応しく、女性的な顔だちをしているが……柔和な表情とは裏腹に、氷のような瞳。
 装いはというと、柄シャツにジャケット、ロレックスの腕時計。香水の匂いも漂わせ、まるで夜の歓楽街を闊歩するホストのようだ。

「ナニ、健次だってノッテるんじゃないの? 俺のことをその二つ名で呼ぶなんてねー」
「お前らの下らん遊戯につきあってやってるんだ」
「優しい、さすが健次だね〜あぁその子か、セイくん」

 怜に一瞥されただけで、少年はビクリと震えた。そして健次の背に隠れる。
 それを見て怜は冷たく笑った。健次とはすこしちがう雰囲気を持つ冷笑だ。

「あれぇ? 随分と懐いてるんじゃないの」

 片眉を吊り上げる怜。意外そうに、気に入らなさそうに。健次は少年の頭を鷲づかみにし、そんな怜に押しつけた。ぎゃっ、と少年からはまた悲鳴があがる。
 
「甘やかしたのかい。 健次らしくないなぁ〜……」
「コイツ、セイっていうのか?」
 
 名前を知ろうともしなかった健次は、はじめて少年の愛称を知った。
 素で呟くと、怜はほっとしたように肩の力を抜く。

「ウン、そうだよ。なんか安心したな、情でも沸いたのかと思った」
「沸くか」

 怜に鎖を掴まれ、セイは怯えた表情を浮かべる。
 そんな様子もまた、健次に“昔”を思い起こさせた。

 なにをされるのかわからずに惑うだけの身。
 頼るものを探そうとしても見つけられない、黒い瞳。

(ただすこし似ているだけだ、ガキの頃の俺に)

 健次は最後に、セイを一瞥(いちべつ)した。
 不安そうにしているセイと視線は絡むことなく、健次は彼らを置いて歩きだす。
 足早にさっさと向かうのは、もちろん船上だった。

 略奪劇の、黒幕に会うために行く。

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 豪奢な船内は、まるで高級ホテルのような内装で、とても海上とは思えない。

 まだ宴は始まっていないが、乗船している客もいる。
 恰幅の良い、経営者然とした男。
 ブランドもので着飾ったセレブ。
 異国の衣装に身を包む、外国人もいる。
 
 多種多様な客たちに共通しているのは歪んだ性欲を持っているということ。
 そして組織の上顧客たちであるということ。
 このパーティーには、招待された客しか入れない。

「克己」

 大広間の控え室に踏み入った健次は、声をかけた。
 気品溢れる調度品でそろえられた部屋、ソファに優美に腰掛け、タブレット端末を使用している“貴婦人”に。

 無駄な肉のないすらりとした肢体に纏う、シャネルのドレス。動作とともに揺れるパールのイヤリング。
 まとめ髪の豪奢な髪飾りが、シャンデリアに光る。
 目の前のテーブルには幾つものスマートフォンと携帯電話が並べられていた。
 こんなにもたくさんの機種を使い分けなければいけないほど、克己には仕事と顧客が多い。

「お疲れ様です。健次さま」

 まっすぐに見据えてくる双眸は凛々しいほどだ。
 健次もその目をまっすぐに見てやる。

「出迎え、ご苦労だったな」
「なんのことでしょう。俺はずっと此処にいましたが」

 麗しい克己の傍らに、腰を下ろした。深くもたれ、脚を開く。

「なにか、お飲みになりますか。ブラックコーヒーですか?」
「そうだな……」

 控えていた雑用係の男に、克己は目配せをする。それだけでいずこかへ消える男。
 飲み物を用意しに行ったのだろう。

「アレもお前の駒か?」
「フフ……まさか。越前谷家の使用人の方ですよ」
「お前はそこらじゅうに、飼い犬を手懐けてんだろ」
「人聞きの悪い。飼い犬は俺です」

 克己は平らな胸に手を当てる。

「この通り、したくもない女装を強いられ、媚を売る日々なんですから」

 わざとらしく言ってみせる克己。健次はすこしだけ核心を突いてみる。

「今回のガキは余程の極上品と見えるな」

 克己は微笑った。
 その笑みに、すこしばかり意味深な翳りが含まれたように見えたのは、健次の気のせいではないだろう。

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「ええ、そうです……」

 克己は肯定する。
 
「あの子は、血統的にも申し分のない存在です」
「なるほどな。血統書つきか」
「生まれながらにして幾つもの業を背負っています。性奴隷に堕ちるのは妥当な運命でしょう」
「けどお前は運命を避けたかった、か?」

 克己は幼年から売春をさせられている。セイは、そんな克己の男娼仲間か、娼婦仲間の子どもなのかも知れない。健次の予想はそんなところだ。

「……さあ。何を言っていらっしゃるのか。意味を計りかねますが」

 華やかに振舞っていても、所詮は克己も性奴隷である。
 派手な動きをすれば、裁かれる身。
 だから、目立ってセイを奪うことはできない。
 今宵の振る舞いが限界だろう。

 健次はそんな克己を労う言葉を持っていないし、労おうとも思わない。

 運ばれてきたブラックコーヒーに、口をつける。

「もうすぐ地獄の蓋が開きますよ」と、静かに克己が言った。

 迫る、人身売買の宴の、開始時刻。 
 常人ではきっと楽しめない、いくらか異常な者にしかわからない、おぞましき狂乱の幕開け。

 健次はパーティーに参加する気などない。
 ただ、セイの末路の『はじまり』を見届けたいという気持ちが沸いてきているのも事実だ。
 戸惑いながらも、こんな自分を面白がりながらも、感情を受けいれる。

 どんな変態に買われるのだろう。セイは。
 どんな顔をするのだろう──競り落とされた瞬間。

 興味がある。それを否定できない、健次だった。