歪んだ愛にある美しさ。 了(りょう)はそれを、身をもって知っていた。 狂気に触れてしまうほどいびつな愛を抱えた人々の夢を叶える、そんな仕事に就いているからだ。 日本国内に及ばず、求められれば何処へでも行く。 アメリカ、ヨーロッパ、アジア圏── ひさしぶりに帰国して、成田空港、いくばくかの懐かしさを感じながらターミナルを歩いた。 了の荷物は簡素なもので、黒革の往診カバンひとつ。仕事に必要な器具は現地で揃えるか、密輸で送る。旅客機内に持ちこもうものなら不審に思われるばかりか、その場で捕まるだろう品も多い。 ミーティングポイントに赴くと、スーツ姿の青年に声をかけられた。 「おひさしぶりです、先生」 見覚えのある顔だ。真堂(しんどう)家に仕える運転手。 「あぁ、おひさしぶりです。迎えに来ていただいてすみません」 一礼すると、相手もお辞儀をしてくれる。ふたりで駐車場に向かい、ターミナルを出てすぐの場所に停められていた黒塗りのベンツ、了は助手席、青年は運転席に座る。 車内に流れているのは厳かな旋律のクラシック。窓の外はちょうど夕闇に沈んでいくところで、日没の雄大さはBGMと調和する。 高速道路に乗ったあたりで、青年は興味深々といった様子で尋ねてきた。 「近ごろは、どのようなお仕事をなされたんですか」 「大がかりなものはありませんよ」 了は苦笑する。 「たとえば先週は、可憐な美少年の生首の防腐処置と、妙齢の女性を生きたまま椅子にする手術を行いました」 いくつかの大粒の宝石とともに瓶詰めにされた顔と、手術前までは女『だった』猫足の脚部を取りつけられた肉の塊を思いだす了だ。 「生首のほうはすでに事切れていますから、意志の確認はできませんでしたが、女性のほうは自ら望んで椅子になりたいと告げたのです」 手術前に、手術に対する同意のサインと血判もしっかりと行った。 ハンドルを切りながら、青年は不思議そうに首を傾げる。 「なぜ、彼女はそのような想いを抱くに至ったのでしょう?」 「パートナーが作家さんで、一日じゅう書きものをしているそうです。愛する人にくっついていたいと、願った結果のようでしたよ」 「正直なところ、僕には理解できないです」 青年は本音を吐露してくれた。もっともだと了は頷く。 「私も椅子になりたいとは思いませんねぇ」 了たちはほがらかに笑いあった。 「ですが、正常な世界では叶えられぬ、口にするのもはばかられるような願いを叶えるのが私の仕事であり、愉しみですから」 闇医者とも、玩具造形師とも呼ばれる、この仕事に就いたときから変わらない了の気持ちだ。 真堂家に仕えているからか、倒錯した嗜好に理解のある青年はしみじみと告げてくれる。 「先生はご立派です。たくさんの人々が、先生に救われていますよ」 了は微笑を翳らせた。 「さあ、どうでしょうか……?」 救ったのか、さらなる闇へと堕としたのか、どちらなのだろう。 依頼主も、救われたいのか、堕とされたいのか、どちらなのか。 表裏一体で絡みあう、善と罪。 現代の倫理、法、価値観とは距離を置いた世界に了は生きている。 ◆ ◆ ◆ 都内まで戻ることなく高速を降り、立ち寄ったのは郊外の山林。 夜闇に染まっていく空の下、管弦楽を聴きながら、運転手の青年と雑談を交わしつつワインディングロードを駆け抜ける。 突如として聳え立つ、古風な煉瓦造りの門が現れるまでは。 恰幅の良い門番によって車は停められる。青年は窓を開けて招待状を示し、通行許可を貰った。 ゆるやかな坂道を登っていくと、深い森を背に佇む洋館がある。 数十年も前に作られたという歴史ある建物で、明かりの灯された姿は貴婦人のように美しい。 館の周囲にはたくさんの車が停まっており、了も運転席に青年を残し、カバンを手に降りた。 彼から預かった招待状を館の入り口で見せ、高い天井のエントランスに入る。此処には何度か訪れたことがある。以前訪れたときは一階のホールで、人身売買のオークションや、性奴隷の見世物ショウなどが行われていた。 今宵は裸身の青年たちによるサーカスの曲芸らしいが、了にはまるで興味が湧かない。 了が来たのは、単に、待ちあわせ場所に指定されたためだ。 濃紅の絨毯の敷かれた廊下を歩き、階段を上る。三階は個室のVIP観覧席が並んでいて、了は突きあたりの部屋の扉を明けた。 「……おひさしぶりです、崇史(たかふみ)君」 椅子に座る崇史は北欧の血を引くクォーターのためか、反則的にスタイルがいい。上質なスーツを纏う身体は驚くほど腰の位置が高かった。亜麻色の髪は手櫛で撫でつけたラフなオールバックで、はらりと落ちたひと房が整った顔だちのアクセントになり、引き立てている。 崇史の態度は素っ気ない。 「最後に会ってから二月しか経っていないだろう」 それは故意のものではなく、彼の平常運転だ。 了は安堵から微笑む。 「最後に会った日から、二ヶ月も、ですよ、私の感覚では」 小部屋に配された円卓、了は崇史と向かいあわせに着く。テーブルには白ワインのボトルを冷やすワインクーラーと、チーズの盛りあわせ、白身魚のオイル煮がある。 空のグラスに崇史自らワインを注いでくれたので、了はとても嬉しくなった。海外で仕事をこなしてきたご褒美のようにも感じられる。 恍惚に浸りワイングラスを眺めていると、怪訝そうに尋ねられた。 「どうした。飲まないのか」 「あ、すみません、飲みますとも!」 やっとナプキンで手を拭き、崇史と乾杯する。 一口味わい、感想を零す。 「崇史君が注いでくれたお酒は、どんなお酒よりも美味しいです」 崇史はかすかに口許をゆるめた。 バルコニーから響く階下の喧騒がうるさい。崇史との至福のひとときを、邪魔されている気にもなる了だった。この館ではもっと静かな夜もあるのだが、今宵は盛り上がっているらしい。 (崇史君となら、無音の静寂に置き去りにされても、愉しめます) 年齢を重ねても衰えるどころか芳醇さを増していく美貌を目にしているだけでも、決して豊かではない表情の変化を取りこぼさずに読み取りたいと務めているだけでも、息遣いを聞いているだけでも良い。 ただ、そばにいるだけで満たされる。 (私は幸せ者です) ワインを味わいながら、しみじみと了は思った。 (永遠に、ずっと、恋をしていられるのだから) 死んでも結ばれはしないかわりに、死ぬまで青春の恋を引きずっていられる。 「……崇史君と出逢って、もう、どれくらい経ったんでしょうかね」 了はふと呟いた。 「覚えていますか。大学のゼミの課外活動で、大阪の造幣資料館に行きましたよね。あのとき、はじめて貴方とまともに口を利いたんです。お互いに旧姓でしたね」 「懐かしいな」 崇史はチーズをかじった。フォークを使わずに指先で。 その手には銀色の結婚指輪が鈍く輝いている。 しばらく、無言の時間を愉しむ。 どれくらい経ったか、ふとバルコニーの下を覗いてみた了は、舞台に送られる歓声と手拍子をやはり邪魔に感じながらも、羞恥に耐えて行う青年達のサーカス芸を見事だと感心も覚えた。 崇史は、了にとっては願ってもいない誘いをくれる。 「俺の家で飲み直すか」 即答で「そうしましょう」と答えてしまう。 「でもいいんですか、途中退席して」 「一応、顔は出した」 此処には社交辞令で来たらしい。 ふたりで席を立った。 館を後にする崇史と了を、スタッフたちは腰を追って仰々しく見送ってくれる。 車に向かいながら、了は、頬を撫でる夜風を心地よく感じた。何処からか薔薇の香りが鼻孔をくすぐった気もして、立ち止まって見まわしてみたが、薄暗いせいか、薔薇の繁みは見つけられない。 歩を止めた了に、崇史が振り向く。 「どうした」 「ショウはうるさかったんですが、それ以外の点では、今宵はおおむね良い夜です」 感じたことをそのまま呟くと、崇史は頷いてくれた。 そういえば満月も綺麗だ。気づいた了は嬉しくなる。 運転手の青年は車を降り、後部座席の扉を開けてまずは主を迎え入れ、それから了も乗りこんだ。 帰路を辿りはじめた車内で、了は隣の崇史に囁いた。 「崇史君、想い出話でもしませんか? ……『あの日』から、私の人生は変わりました。貴方がたに惹かれてしまったから……」 風景に映る屋敷が小さくなっていく。 崇史は窓の外を眺めつつ、薄笑みを零した。 「恨んでいるか?」 「まさか」 了は肩をすくめた。 「感謝しています。ありがとうございます、私を淫靡な闇のなかに誘っていただいて」 「いや、お前は元々抱えていたのだ」 「素質を、ですね」 「あぁ……そうだ」 崇史は遠くを見つめたままだ。 了はそんな崇史の横顔を見つめる。 口づけをした回数はそれほど多くはないはずだと思うけれど、また、機会があれば重ねてみたい。 無理強いする気はない。なにかの拍子でいい。事故みたいなもので構わない。 穏やかな欲求を温かく胸のなかで転がしながら、了は座席に深くもたれ、瞼を閉じた。 「あの頃、私はまだ『理』(ことわり)を失っていなかったんですよ」 ほろ酔いを感じながら、戻らない過去に想いを馳せる。 崇史はただ静かに耳を傾けてくれていた。 |