残光

 突然、了理(すみさと)の目の前にいた青年は、その場に崩れ落ちてしまう。
「きゃあっ……!」
 声をあげたのは倒れた彼ではなく、おなじフロアにいた女性客だ。
 了理はしゃがみ、力の抜けた上半身を抱きあげる。
「大丈夫ですか?」
 薄手のカーディガンを羽織った身体は軽く、驚かされた。
 この春入学したばかりの了理はまだ、彼と親しく会話する機会に恵まれていないが、おなじゼミに所属する上級生なので名前は知っている。真堂黎生(しんどうれお)。
 財閥の流れを組む多角的企業グループの御曹司だ。
「……う……ん、また目眩かぁ、大丈夫……」
 長い睫毛にふちどられた瞼が薄く開き、了理はほっとした。
 駆けつけた警備員に黎生は頼らず、立ちあがる。
「よくあることなんだ。たぶん、昨日も夜更かししたからだと思うよ……」
 了理に寄りかかりつつも、黎生は自身の足で歩きだした。
 展示室を出ると、廊下には休憩用のロングソファがある。ふたりで腰かければ他の学生も幾人か近づいてきて、心配げに声をかけてくれた。黎生は「大丈夫だから」の一点張りだ。
「……きみも、もう行っていいよ。ごめんね。一年生の……ええと、東條(とうじょう)君だっけ」
「はい、そうです」
 頷きつつも、了理は黎生のベルトに手を伸ばしていた。反射的な行動だ。バックルを外されながら、黎生は戸惑いの素振りを見せる。
「えっ、な、なに?」
「身体を締めつけているものがあれば、ゆるめたほうがいいので。吐き気はありませんか」
「な、ないけど……」
「頭痛は?」
「ううん、ない」
「呂律もまわっていますし、眼球の動きに異常もない。顔色は良くないですが、その他に重篤な症状は見られないので、なるほど、しばらく休んでいれば確かに大丈夫でしょう」
 所見を告げれば、黎生は微笑った。
「まるでお医者さんみたいだ」
「高三の春までは目指していました。事情があり、急遽、経済学部に進学しましたが……」
 かいつまんで説明した。黎生はトートバッグから小ぶりな水筒を取りだし、一杯だけ口にする。
「本当は医学部に入りたかったの?」
「えぇ、そうです」
「じゃあきっと、東條君にとっては退屈だよね……古今東西の貨幣を眺めるなんて」
「そんなことはありません。これはこれで新たな発見があります」
 了理の言葉に対し、黎生は感慨深げに頷いた。
「前向きなんだなぁ。いいことだよ。望まずに入学したのは崇史(たかふみ)もだけれど、崇史よりもよっぽど熱心だ」
 崇史とはだれを指しているのか、了理にはピンとこない。
「介抱してくれた東條君に、もうちょっとだけ甘えてもいいかな」
「はい、なんなりと仰ってください」
「崇史を呼んできて欲しいんだ」
「あの……」
 だれなのか合点がいっていないことに、黎生が気づいてくれた。
 フルネームを教えてくれる。
「古賀(こが)崇史だよ」
 名字を聞いて了理の頭のなかに、やっと姿が思い浮かんだ。
 黎生とおなじ二年生だ。
「薬は崇史に持たせているから」
「薬……ですか」
「目眩の原因はわかっているんだ。不整脈からだよ。俺の心臓はとても脆弱なの」
 胸に手を当てて黎生は微笑う。カーディガンとシャツから覗いた手首はたやすく捻り潰してしまえそうなほどに細く、骨ばっている。
「崇史は隣の旧公会堂にいるはずだから、東條君を歩かせちゃう、ごめんね」
(どうしてそんなところに?)
 ゼミの課外活動で造幣博物館に来たはずなのに、彼は別行動をしているらしい。
 そもそも、なぜ、彼が黎生の薬を持っているのだろう。
 了理はいくつかの疑問を抱いたが、患者に早く薬を飲ませたいので、それ以上は質問することなくソファを立った。
「わかりました、少々、待っていてください──」


   ◆ ◆ ◆


 造幣博物館を出て、横断歩道を渡った先にある旧公会堂はローマの神殿さながらの荘厳なつくりだった。高く伸びた石柱たちが三角の屋根を支えている。
 造幣博物館も歴史を重ねた西洋建築だが、こちらはさらに時を遡りそうだ。
 崇史の姿は遠目からでも目立ち、すぐにわかった。
 黎生同様、崇史ともそれほど面識がないので、こうして彼を意識して見たのははじめてだった。
 亜麻色をした髪は、晴天の空の下では白金に見えなくもない。
 天竺のジャケットにカットソー、デニムにスニーカー。カジュアルな服装でも気品が漂う。ベンチに座っていても日本人離れした体躯をしていることも明らかで、長身かつ腰の位置が高い。組んだ脚の長さに了理は驚かされる。
 スケッチブックに鉛筆を走らせている崇史は、そばに来た了理に気づき顔を上げた。
 切れ長をした二重の瞳が了理を射抜く。鋭くも美しい眼光だ。
「……なんだ」
「真堂先輩が、目眩を起こしました。それで、古賀先輩を呼んで来て欲しいと頼まれたんです」
 用件を発しながらも、了理の目線は崇史の手元に吸いこまれていた。鉛筆の濃淡だけでさらさらと描かれている陰影は旧公会堂を象っていて、あまりの精緻さに目をそらせない。
(も……ものすごく絵が……上手い……)
 崇史はスケッチブックを閉じた。
 鉛筆画に惹かれていた了理の意識が、現実に戻る。
「そうか。わかった」
 崇史は荷物をまとめだす。そのかたわらで、了理は敷地内に入ってきた人影に気づいた。
 のっそりと歩いてくる、その姿はまぎれもなく──
「あっ、真堂先輩……」
 了理の後を追ってきたのだ。休んでいなくて大丈夫かと心配になる。さわやかな陽射しを浴びながら、黎生は苦笑する。
「やっぱり、俺も来ちゃった……」
「具合が悪いんだろう」
 崇史にも心配そうな視線を注がれ、了理たちのそばに来た黎生はまだ青ざめた顔色で頷いた。
「さっきよりはいいよ。東條君が介抱してくれたお陰かもね」
 了理は首を横に振る。
「いいえ、僕はそんな、特になにもしていません」
 黎生は崇史のとなりに腰を下ろし、了理は立ったまま彼らと向かいあう。世話をすることに慣れた手際の良さで、崇史はデイパックからプラスチックのケースを出し、何種類も詰まった薬から錠剤を選んだ。水筒のお茶とともに、黎生はそれを飲みこむ。
 緑陰の下、嚥下する細い喉を了理は眺めつつ、さきほど感じたことを口にしてみる。
「……古賀先輩はすごく絵が上手いんですね、驚きましたよ」
「崇史は本当は美大に行きたかったんだ」
 答えたのは、水筒を両手で持つ黎生だった。
「行くべきだったと思うよ。有名な芸術家になれたかもしれない」
「では、どうして──」
 経済学部に来たのかと訊こうとすると、黎生は崇史に身を寄せる。
「俺が束縛してるんだ」
 黎生の髪が、崇史の顎に触れた。
「崇史の未来を殺したの」
 嬉しそうに微笑んでみせてから、黎生は蓋を閉め、ふっと崇史は薄く笑う。
「可哀想でしょう? 崇史……」
「では僕は、家族に未来を殺されたんですね」
 彼らの関係性にほのかな怪訝さを抱きながらも、了理は実感した。
「叔父の医院を継ぐのが夢でした。ですが、昨年、兄さんが亡くなったのをきっかけに、僕は両親の意向で、兄のような官僚になるようにと決められましたから」
 会話した記憶もろくにない、歳の離れた兄が不幸な交通事故に見まわれたのは、ちょうど今日のようにさわやかな五月晴れの日だった。
 崇史から離れた黎生は、切なげな表情を浮かべてみせる。
「そうだったんだね……なんだか東條君とは仲良くなれそう。ねぇ、崇史もそう思わない?」
「お前の嗅覚は確かだからな」 
 彼らは目配せをする。その様子は、了理にはどことなく妖しげに感じられた。それでいてまるで、悪戯の計画を練る無垢な子どものようにも見える。
(とても、不思議なふたりだ)
 彼らに対する了理の率直な感想だ。
 黎生にそっと尋ねられる。
「東條君って、下の名前は、なんだったかな?」
「僕ですか。了理といいます」
「じゃあ了理君って呼んでいい? 距離を縮めたいから」
「はい、構いませんが……」
「了理君も俺たちを下の名前で呼んでくれていいよ」
 黎生の提案は嬉しかったが、かすかに萎縮も覚える。
「さすがにそこまで、馴れ馴れしくできません」
 両手のひらを見せて断っても、黎生は折れない。
「一学年しか変わらないよ、ほら、黎生君って呼んでみて?」
「黎生。無理強いするな」
 崇史に制されると「わかったよ」と、黎生はしぶしぶ頷く。了理は苦笑した。
「それなら……黎生先輩と呼ばせてください。よろしくおねがいします──黎生先輩、崇史先輩」
 崇史は目を細めた。
「あぁ。宜しく……」
 強面に整った顔立ちが和らいださまはとても魅力的で、了理は見惚れてしまう。
 黎生の笑顔も華やかで眩しい。線が細いためもあってか、満面の笑顔を浮かべても、儚げな雰囲気が消えず、妙な色気となって黎生にまとわりついていた。
 後になって思えば、それは、死の香りだったのかもしれない──