Epilogue

 黎生の命の灯火は、大学卒業まで保たなかった。
 予期していたこととはいえ、哀しかった。
 命は儚く夏の光となって、泣き崩れる舞花の姿は焼きついたまま永遠に消えない。
 崇史はスウェーデンから永く戻らず、当時の了は、もうこのまま帰ってこないのではないかと不安にかられる。寂しかったが、崇史の人生なのだから、崇史の好きにするべきだとも思った。

「──でも、貴方はちゃんと帰ってきてくれました。そして真堂崇史になった──」

 シャンデリアが薄青い光を零すフロア、真堂邸の地下室。
 ひとりがけのソファに腰かけている了はトワイスアップのラフロイグを口に含む。この家には了の好きな銘柄のウイスキーもいつも置いてあって嬉しい。
 向かいあわせに座る崇史は、オンザロックでブルイックラディを嗜んでいる。酒に強い崇史はどれだけ味わっても、顔色がまるで変わらない。そんな崇史は呆れたように肩をすくめた。
「お前は韮川了とやらになった……よく分からん名だ」
 了は苦笑を返す。
「やむにやまれぬ事情と必然の結果ですよ」
 どこまでも人生を強制しようとする両親に困り果てた結果、倫二に協力してもらい、行方不明ということにしている。新しく戸籍を得て全くの別人として生きてきた。
「韮川は買った戸籍の名字です。下の名前から『理(ことわり)』をはずしたのは、現代の倫理では計れぬ道を歩むと決めたからです」
「お前の決意が示された名だというのは、認めてやろう」
「ご理解いただけて嬉しいです」
 目の前で酒を呷る崇史に見惚れる。四十を迎えても麗しいままだから見飽きることはない。
(剥製にしてしまいたいくらいです……)
 了の視線の先で、崇史はグラスを置いて呟く。
「舞花も亡くして十年か」
 ゆるく巻かれた髪を揺らし、薔薇の庭を探す舞花を思いだした。
『ねぇ、了理さん、どうしたことなの、お兄さまがいないの!』
 舞花の瞳はただ虚空を彷徨う。
『何処に隠れてしまったの? あぁ、お兄さま、お兄さま……!』
 それでも、どれほど精神の歯車が噛みあわなくなっても、了にとって舞花の印象は最期まで高貴な姫君だった。
 記憶の舞花に微笑みかけてから、了は微かな願望を明かす。
「私も一度、結婚というものを経験したい歳になってきたんですが」
 崇史はさらりと述べる。
「韮川君には無理だろう」
 ……崇史は韮川という名前を面白がっているふしがある。わざとそう呼ばれている。
「ははは、身も蓋もないですね」
「俺にも妹がいれば良かったのだが」
 真顔の崇史に、了も真面目に頷いた。
「その場合、必ずや、プロポーズを致します」
「そうか」
 了は腕時計を見る。そろそろ診療所に戻ったほうがいい。
「実は、深夜二時に患者さんがやってくるんです、去勢志願者の方が……」
 ほろ酔いで手術したほうが上手くいくときも多いから不思議だ。
 グラスを空にし、了は立ちあがった。
「ごちそうさまでした。思い出話につきあっていただき、ありがとうございます。今夜はいちだんと美味しいお酒でした」
 崇史はまだ地下で過ごすらしく、ソファに身体を沈めたままでいる。
「また来ます。何度でも来ます」
 崇史の瞼は閉じられた。
「あぁ……」
 顔立ちをずっと眺めていたかったし、いっそのこと唇も奪いたかったが、想いは胸の内で留める。その感覚はまるで芳醇なワインを舌先で転がす感覚にも似ており、了は決して嫌いではないのだった。ずっと味わっていたいとさえ思う。
 黒革の診察鞄を手に、地下のリビングを後にする。廊下には本物の眼球を使った装飾品、四肢をパーツとした調度品も飾られ、壁面に埋めこまれた水槽には防腐処置を施された頭部が泳ぐ。
 不自然な形にウエストを絞るコルセット、拷問具、拘束具の類なども含め、多忙な社長業の合間に作りだされた品々はアンダーグラウンドな趣味を持つ者のあいだでは高値で取引されている。
(私が、正規の医師免許も取らず、闇の施術専門になったのは、崇史君の影響もあるかもしれません)
 鋼鉄の大きな扉を開き、地上に続く螺旋階段をゆっくりと上っていった。酔っているからか、反響する足音を聞いているだけでも、なんだか愉しい。
 すべての段差を上った先は書斎だった。秘密の地下室への入り口は、豊富な蔵書のなかに隠されているのだ。
 吹き抜けになった玄関ホールでは家政婦に会う。
「韮川先生、もうお帰りですか? ゆっくりしていってください」
「すみません。これから手術の予定があるんですよ」
 使用人に送らせるという申し出を断り、外に出た。タクシーを拾う大通りまで散歩したい。
 心地よい夜風。静寂の薔薇園は厳かな雰囲気も漂わせている。
 石畳を歩いてくる人影は、大貴と執事の黒柳だった。
 大貴は私服姿で、デニムにコンバース、パーカー、ライダース。片方の肩に下げているのはスタッズと缶バッヂのついたリュック。腰の位置が高いので、モデルのように見える。日本人離れした体型は崇史の血統だ。
 大貴は了に気づくと目を見開いて驚きを表し、それから笑んで駆け寄ってくる。
「ニラ先生! こんばんは! ひさしぶりに見たっ!!」
 人好きのする笑顔には黎生の面影を感じさせる。
 了もつられて笑う。
「これはこれは……こんばんは、ご令息。ご実家に帰っていらしたんですね」
「いま帰ってきたんだよ。さっき品川駅についてー、迎えにきてもらったんだー」
 黒柳も立ち止まり、了にお辞儀する。了も頭を下げる。
 大貴はというと了の襟元に鼻を近づけて眉根を寄せた。
「なんか、先生、酒くせー?」
「崇史君と飲んでいたので」
「えー、終電でくるんじゃなかったっ、もっと早く来ればよかった、俺もいっしょに飲みたかったっ!」
 身体を離した大貴は、心底不満気に拗ねてみせる。
 だが、すぐに気を取り直してきらきらと瞳を輝かせた。
「つーかー……! 先生と会ってないうちにー、またイロイロ上達したんだよ。鞭さばきとか、ニラ先生にも見てほしい」
 もちろん了は頷く。
「ぜひ、拝見させてください」
「ニラ先生を叩いてもいいんだよ?」
 大貴は不遜に笑う。今度の笑みには崇史らしさが滲む。
「うそだよ。先生はマゾ犬じゃないから、ぶってもつまんねーもん!」
「ははは……」
 大貴がどんなふうに育っていくのか、とても楽しみであると同時に、末恐ろしい。
 また子どもらしい笑顔に戻り、ひらひらと手を振ってから大貴は歩きだす。
「じゃあ、おやすみなさーい、ニラ先生」
「はい、おやすみなさい、大貴君」
 了も手を振り返した。彼らの後姿に踵を返し、石畳を行く。
 この館にはもう、退廃の美しさを振りまいていたあの兄妹はいない、それでも。
(……余韻は続いている……)
 大貴の笑い声を聞きながら思った。
 酔っているからだろう、舞花と黎生の笑い声も響く。
 上品なワンピース姿の少女とサスペンダーに半ズボンの少年が、楽しそうに駆けてきて、了の横をすり抜ける。彼らの姿は薔薇園に消える。消えてしまっても──了の心にもこの世界にも欠片は遺され、色とりどりに息づいているのだ。崇史の心のなかにも。
(そういった観点では、まだまだご健在ですよ)
 真堂邸の鉄柵の門をくぐるとき、了は夜空を見上げた。
 薔薇の香りと綺麗な月は、青春時代の大切な記憶を呼び起こす、優しい呪い。これからも呪われたまま生きていこう。叶わない恋、鮮烈すぎて忘れられない青春時代、正常とされる価値観の人々には理解されない生業。……それでいい。
 呪いに蝕まれたこの身で、呪いのような運命を抱えた人々を、赦してあげたい。出来る限り楽にしてあげたい。
 了は満ち足りた気持ちで月の光を浴び、夜道を歩き、帰路を辿る。