午前の講義が終わって学食に向かうと、入り口脇、食品サンプルを並べた棚のとなりに崇史がいた。なにをするでもなく壁にもたれ、人の流れをぼおっと眺めている。 長身に強面の美貌、亜麻色の髪──目立つ容姿をしているのですぐに分かった。 通りかかる学生たちはちらちらと崇史を見ていくが、当たり前だと了理は思う。 カットソーにパーカーを羽織ってデニムにスニーカーと、今日もラフな装いだったし、鎖骨をすこし越えるくらいの長さの髪は伸ばしたというよりも放っておいているだけのような無造作さだが、それでも気品を漂わせている。 了理と崇史の目があう。崇史は壁から背を離し、了理に近づく。 パーカーのポケットに手をつっこんで、無表情のまま命じた。 「来い」 一瞥すると歩きだし、了理はついていかざるを得なくなる。 「あの、崇史先輩、僕は昼食を食べに来たんですが」 「だろうな……昼は毎日飽きもせず学食の蕎麦だと話していた」 なにげない会話を覚えていてくれたことに、ちょっと嬉しくなる了理だった。 「もしかして、ずっと待ってたんですか、あそこで」 「ずっとではない。二十分くらいか」 「二十分! すみません、もたもたして!」 「……? 長い時間ではない」 「そ、そうでしょうか?」 (そもそも、僕が登校すらしていなかったらどうするつもりだったのか……) 大学内のコンビニに崇史は入っていく。戸惑いながらも従う了理の手に、無言で押しつけてくる商品の蕎麦。了理は「あ、どうも」と受け取ってしまう。 「僕はこのお蕎麦をどこで食べるんでしょうか」 「黎生のところだ」 崇史はカゴを手に取り、いくつかのサンドイッチと総菜パンと、レンジで温めて食べるミネストローネスープを選ぶ。了理は蕎麦の他に、健康を考えサラダも手に取った。 列に並び、レジで崇史はデニムの後ろポケットから長財布を取りだし、支払ってくれる。 売店を出てふたたび歩きながら、了理は何度も頭を下げた。 「すみません、奢っていただいて」 「急に連れていくお詫びだ」 「あの、電話をかけてくだされば、僕のほうから尋ねましたよ」 先日の課外活動のときにお互いの連絡先も交換している。 崇史はずっと無表情だったが、そのときばかりは軽く目を見開く。 「成程な……その手があったか」 「…………」 それからは特に会話もない。了理にとって苦痛な沈黙ではなかった。むしろ、心地いい。崇史ほどではないが、了理ものんびり屋なので波長が合う気がする。 校舎を移動し、到着した部屋のドアをノックして入室した。 黎生のために用意された個室で、保健室とおなじようなベッドと、簡素な調度品、窓際にはいつも綺麗な花が置かれている。了理は黎生と知りあうまで大学にこんな部屋があるとは知らなかった。 病弱ということ、真堂家の令息という立場から特別待遇がなされている。 黎生はベッドに座り読書していたが、顔を上げる。襟つきのシャツにカーディガンを合わせた、今日も品のいい装いだ。了理にふわりと微笑みかけてくれた。 「ごめんね、了理君、呼びだしたりして」 「構いませんよ。お昼ごはん、ご一緒させてください」 黎生がしおりをはさんで閉じたのは、ニーチェの著作だった。本をシーツに置くとスリッパを履き、テーブルに移動する。了理と黎生は向かいあわせに座った。 崇史は電子レンジを使って、買ってきたものをさっそく温めている。黎生はそんな崇史に指示を出した。 「ねぇ崇史、紅茶も淹れて。了理君は好きなブランドってある?」 「紅茶のですか? すみません、あまりそういった事柄に詳しくないもので……」 「そうなんだ。じゃあ、俺の大好きなアールグレイにしよう? 正統派にトワイニングにしようか。あぁ、でも、了理君はお蕎麦を食べるんだね、合うかな?」 「お気になさらず、黎生先輩の好きなお味を知ってみたいです」 了理は胸の前で指を絡めてうっとりと語った。 「アールグレイはね、妹も好きなんだよ。パパはプリンス・オブ・ウェールズのほうが好きみたいだけど……俺の家系ってどうしてか知らないけど、みんな紅茶が好きなんだ」 電子レンジがチンと鳴り、崇史は温まったミネストローネを黎生の前に置くと、ミニキッチンに戻って紅茶の用意をする。返事はないものの会話はちゃんと耳にしていて、棚に並んだいくつもの紅茶缶からトワイニングのアールグレイを選んでいた。 「ブランドごとの個性っていうのかな、狙いが、アールグレイを飲むとよく分かるんだ。世界中のいろいろなアールグレイを飲みくらべてるんだけど、最近はシンガポールのティーサロンのものが美味しかったな。学校には持ってきていないから、今度、俺の家においで。崇史が淹れるよりも、執事が淹れたほうが美味しいし──」 しばらく紅茶についての説明を聞いていると、盆を使わずにストレーナーとティーカップ三つとポットを両手に崇史が戻ってくる。黎生のカップを置く動作だけかなり雑だった。 「もう淹れんぞ」 「聞いてたの? やだなぁ。崇史のも美味しいけど、年の功で爺のほうがさらに美味しいのは仕方がないじゃないか」 目の前で崇史が、カップに紅茶を注いでくれる。了理は恐縮しつつも所作に見とれた。蕎麦の包装もぺりぺりと剥がす。 注ぎ終えた崇史は空になったポットを片付けてから、やっと黎生のとなりに座る。 三人ではじめる食事。当然ながら、にぎやかな学食で食べるよりもずっと落ち着いて食べられるし、崇史の紅茶も美味しかった。了理は本音を口にする。 「ご迷惑でなければ……黎生先輩の体調の良い日、またここでお昼をご一緒してもいいでしょうか?」 黎生は満面の笑みを浮かべた。人好きのする笑顔だ。 「もちろん。俺も了理君と過ごしていると癒されるし──『俺たちに生まれたときから欠落している無垢と純粋を対岸から眺めている気持ち』にもなれて、心がきゅっと締めつけられるのも堪らないよ……」 「……えっ……?」 了理は、黎生の言葉の意味がよく分からずに戸惑う。黎生の横でサンドイッチをかじる崇史は、らくがき帳にしているクロッキー帳を開いた。クロッキー帳にはさんでいた封筒を取り、黎生に渡す。黎生はそれを了理にかざす。 「だけどね、了理君は『招待状』を受け取るにふさわしい者のような気もするんだ──」 ◆ ◆ ◆ 陽の落ちた、墨色の世界を流れる車列のライト。 光はせわしなく行き交い、街のネオンもきらきらと艶やかに大都会を彩る。 交差点に溢れるのはさまざまな人々で、着飾っている者もいれば、くたびれた服装をした者、学校の制服姿、スーツ姿── タクシーの窓越しに過ぎていくそんな夜景は、了理にとって、いくばくか懐かしく感じられるものだった。 夜間に出かけるのは長く預けられていた叔父の家から昨夏、実家に戻って以来だ。 両親は厳しく、学業以外の不要な外出は認めない。 (父さんも母さんも、僕が兄さんの代わりになれないのは、分かっているだろうに……) 了理自身も分かりきっている。両親の希望で経済学部に来たものの、父と兄とおなじように経済官僚の道を歩んでいく未来などまったく描けないまま過ごしている。 (僕はお医者さんになるんじゃなかったのか? 本当にこのままでいいんだろうか?) 乗り気でないままに従い、惰性で送る日々。 (だって……僕には実家以外に居場所がない……捨てられてしまったじゃないか) 転勤の多かった両親は長男だけを手元で育て、了理は叔父に預けてきた。了理にとって叔父は父親と呼べる存在でもある。ずっと仲良く暮らしてきた。それなのに、両親の元に戻されると決まったとき、叔父はすんなりと了理を返してしまったのだ、薄情なほどあっさりと。 実家に引っ越してからというもの、叔父からは連絡もない。了理から電話をかけるのもはばかられた。ひょっとしたら、親代わりに育ててくれた十年以上の歳月、実はずっと迷惑だったのではないか──そんなふうに考えて不安になり、幾度も、電話に伸ばしかけた手を下ろす。両親の元に戻ってきた日から、ずっと心に靄がかかり、すっきりしない……。 叔父との関係。 居心地の悪い実家。 奪われた夢。 押しつけられた将来。 今夜はすこしでも気分転換になればいいなと思う。 今回に限って夜間外出できた理由は、もちろん、真堂家の御曹司に誘われたからだ。 仲良くしておきなさいと母親に念を押され、着ているスーツも母親に見立てられたもの。了理は普段、あまり身なりには気を遣わないが、さすがに今夜は素直に袖を通した。 あの部屋で黎生がしてくれた話によると、政治家、企業主、さまざまな業界の著名人、そうそうたる顔ぶれのメンバーが集まるらしい。 『だけど気負わないで。内輪のフランクな集まりなんだ。普段着でも構わないよ』 (と、言われたって、そんなわけにもいかないですよ……) 緊張感に蝕まれつつも、歴史ある荘厳なホテルの車寄せでタクシーを降りた。ドアマンに迎えられ、シャンデリアに照らされたメインロビーに入る。 招待状に書かれていた通り、上階のホールに向かう。 エレベーターを降りれば厳重な警備に迎えられる。ボディーガードらしき屈強な男たちが廊下に配備されていた。彼らの視線に貫かれると、なにも悪いことをしていないのに、ぞっとしてしまう了理だ。そのうちのひとりが近づいてきて、招待状の有無を確認してきた。 了理はスーツのポケットから取りだして見せる。 認めた瞬間に、相手の表情は笑顔になる。 「黎生さまのご招待客でいらっしゃいますか、どうぞこちらへ」 導かれて廊下を歩きだせば、並び立つ他の者たちも了理に対してうやうやしく頭を下げる。 (……僕は、こんな待遇を受けるのには相応しくないような……) 傅かれることへの不慣れさも手伝って、つくづく実感した。 案内する男はにこやかに説明してくれる。 「予定ではあと五分ほどで、黎生さまの演目がはじまるところです」 (演目? いったい……なにが始まるのか……) 意味が分からない。なにしろ了理はどんな目的の宴なのかすら聞かされていない。ただ、黎生に言われた通りの時間に来ただけだ。 『パーティー自体は二十時からだけど、一時間くらい遅刻して、ちょうどいいかもしれない』 会場に足を踏み入れる前に、そう広くはない前室に通される。間接照明の光に満たされ、幾対かのアンティークチェアと円卓が置かれていた。それらとは別に長テーブルでは受付嬢が待機している。了理に深々と頭を下げてくれた。 案内してくれた男は入室せず、了理の背後でドアが閉まる。 こじんまりとした空間には受付嬢の他、ひとり、初老の男もいた。 彼はチェアから立ち、了理のそばにやってくる。 「やあ、きみが黎生の話していた新入生君か」 間近で相対すると、彼がいかに上品かつ知的な雰囲気を漂わせているのかが、ひしひしと伝わってきた。優しい瞳をしているのに威厳もある。 「いつも黎生が世話になっているね」 老紳士の正体が分からないまま、了理は苦笑する。 「いえ、まだ黎生先輩とは親しく話すようになったばかりなんです」 「それでも黎生が招いたということは、なにか、きみには光るものがあったということだ」 「光るもの?」 「素質と言ったほうが良いかね?」 老紳士は柔和な笑みを浮かべる。了理にはなにもかも不可解だ。 「……あの……すみませんが、貴方は……?」 「私は黎生の父親だよ」 なるほど、言われてみれば顔立ちには面影がある。纏う気品にも黎生と似たものがあった。 (そうだ……真堂穎一郎(えいいちろう)……真堂不動産の社長と、真堂グループ全体をまとめあげる総帥の座に着いていたはずだ……) 経済学部に来たくせに、真堂系企業のみならず、さまざまな企業の実情にもあまり興味を抱けない了理だったが、大学で過ごしているうちに得た知識だ。 きっと黎生も将来は、グループ全体の総帥と真堂不動産の社長に就くのだろう。 「すみません……! 僕は黎生先輩とおなじゼミに所属している東條了理と申します」 「いい、いい、堅苦しい挨拶は無用」 きらびやかな肩書きを持つ穎一郎は快活に笑う。 「遅くできた子で、その上病弱だ。甘やかして育ててしまったから、迷惑をかけていないかね」 「いえ。そんなことはありません、とても優しくて素敵な先輩です」 (……いいなぁ、優しそうなお父さまで……) 気づけば、ごく自然に了理も微笑を浮かべていた。 ホテルに来てからずっと緊張しきりだったが、はじめて肩の力をすこし抜くことができた。 羨ましさも覚える。了理の実父は厳格というよりも堅物で、たまに口を利いてくれるときは有無を言わせない命令口調と決まっているからだ。 穎一郎は、ポンと了理の肩を叩いた。 「では、きみ、仮面を着けてみせてくれたまえ」 「……か、仮面とは?」 「まったく、黎生のやつ、なにも教えていないとみえるな」 穎一郎は苦笑し「息子の友人に仮面を」と、受付嬢に告げた。 受付嬢は大ぶりなトランクを取りだし、テーブルに広げてみせる。 合計三つのトランクが並べられ、開かれた。 なかには幾つもの仮面が並び、色も形もさまざまだ。 目許だけを隠したもの、顔全体を覆うもの。豪奢な装飾に彩られたものもあれば、シンプルなデザインのものもある。 戸惑うばかりの了理に穎一郎が説明する。 「ヴェネチアン・マスクだよ。イタリアのヴェネチアではお祭りの際、貴族も平民も別け隔てなく楽しむために仮面を着けた。趣旨はそれと同じだね」 仮面を着けなければ会場に入れないだなんて……結局、宴の概要のほとんどを伏せられていたのだと困惑する了理の肩を、穎一郎は優しく叩いた。 「……さあ選びなさい、きみ自身の手で……」 了理は諦めにも似た気持ちで、この場のルールを受け入れる。 「わかりました」 目に止まった仮面があったのも事実だ。 口許がくちばしのように長く伸びたそれは、了理にとって見覚えのあるフォルムだった。 (中世の医師が、黒死病の患者を診察する際に被っていたマスク) 叔父の書斎で読んだ医学本に描かれていた。了理の記憶が正しければ、くちばしの部分には感染を防ぐために薬草を入れていたはずだ。 迷わず手にした了理を見て、興味深げに穎一郎は頷く。 「ほぉ『メディコ・デッラ・ペステ』それを選んだか」 彼が口にした仮面の名は了理の記憶通りだ。 「よくご存知で……さすがは博識でいらっしゃいます」 穎一郎は快活に笑った。 「奇怪なものに惹かれる性質なのさ」 確かにメディコ・デッラ・ペステは医師の着けるものというより、死神のようなフォルムで怪奇的だ。顔全体を覆うそれをあてがうと、穎一郎が後頭部の金具を留めてくれる。 真堂家の当主に世話をされるなど恐縮でしかなく、了理は着けてもらいながら「すみません」と謝った。 「いいんだよ、気にしないでおくれ。導くのは先達者としての役目でもあり愉しみだ」 皺の多い手が離れる。 両目の覗き穴から眺める視界には、朗らかに笑む穎一郎と受付嬢が映った。 「よく似合っているよ、なぁ、きみ」 「えぇ、とてもお似合いでございます」 彼らは嬉しそうに拍手してくれるが、了理にとっては……祝福される意味がわからない。仮面を着けて褒められるなんて、なんだかとても滑稽に思えてしまう。 穎一郎は持参していた仮面を着けた。目許のみを覆った、梟(ふくろう)を象ったデザイン。 シンプルだが重厚なつくりだ。 「さぁ、行こうか」 「……はい……」 これからなにが起こるのか、了理にはなにも予測できないままだが、緊張感は快いものへと変化していた。未知の世界に足を踏み入れることに対し、好奇心が目覚めている。 受付嬢に開かれる扉。隙間から漏れる薄紫色の光。それは天井から注ぐピンスポットライトの明かりだと、扉が開ききる前に気づけた。 訪れている人々の後ろ姿は影絵のように蠢き、歓談の声はさざなみに似ている。 笑い声もするが、下世話なものではなく、どこか上品だ。招かれている客層を反映しているのか。 そして音が響いている。リズミカルに響く。 手拍子とは違う。会場にゆらめくチェロの旋律にあわせて弾ける、小気味よい音。 了理には馴染みのない、聞いたことのない音だった。 (なんの音だろう?) 梟とフロアを歩いていくと、梟の正体を知っている者もいるようで、兎の顔や三日月の顔が、手にしたカクテルを楽しむのを止めて会釈してきた。 (まるで、奇妙なお伽話の世界に迷いこんだみたいですね……) 子どもが喜ぶメルヘンチックな世界というよりも、まるで、高熱を出してうなされているときに舞い降りてくる悪夢だ。目の前を通りすぎていくのはバフォメットの被りものをした男。キリスト教圏では悪魔とされている羊だった。 了理たちは音のするほうへと近づいていく。そう大きくはない円形の舞台があり、白猫の仮面をした青年と、黒豹の仮面をした青年が、なにかを行っていた。 なにか、というのは、了理には眼前で目にしても、行為の名が、よくわからなかったからだ── 白猫はほとんど裸で、かろうじて薄絹の下着を身に着けている。尻の谷間に紐を通しただけのような際どさで、布地の部分が少ない。 色白く、痩せたその身体に、黒豹は鞭を振り下ろす。 そう、鞭。 彼らが行っているのは中世の罪人に処すような鞭打ちとの行為だとやっと了理は理解した。 (この音は、肌を叩く音だったのか) 舞台袖で奏でられているチェロのリズムを取っていたその音の正体が分かった。 何度も、何度も、白猫の肌を傷つける一本鞭の打擲。 黒豹は手首のグリップを効かせて、空中に放物線を描き、背中や臀部や太腿に赤い痕を刻みこむ。 ヒュッと空を切った音の後に、肌に触れた音が鳴る。 頭の後ろで手を組み立っている白猫は当然ながら、痛みの声を上げた。 「あぁああっ……!」 声に聞き覚えがある了理だった。 白猫の容姿にも……見覚えがある。 既視感は黒豹にも感じていた。ハイネックのノースリーブにパンツを合わせた、長身かつ大柄な体格。全身黒の装いに亜麻色の髪色が映える。鞭を使うたびにしなる腕の筋肉を了理は目で追いながら、ひとつの疑惑に辿り着いた。 (……まさか……) 素敵な先輩たちに巡り会えたのに、いま、認識を揺らがされるような現実を直視している。 思いだす、招待状を渡してくれたときの、黎生の微笑み。 『すこし恥ずかしいけど、俺はね、了理君に来てもらいたいんだ』 (黎生先輩は綺麗で、優しくて、いつも穏やかで。毅然としていて、大企業を継ぐ人に相応しくて) 隣の崇史は、了理が出席してもしなくてもどちらでもいいといった態度だった。紅茶を飲みながら、クロッキー帳に落書きしている。 (崇史先輩とは……意外に気があうなって感じています。僕もマイペースだし、ひとりが苦にならないから。本当は経済学部に来たくなかったって所もです) 打擲(ちょうちゃく)とともに、黎生に似た白猫は鳴き続ける。 「あぁ……、……ッあぁぁ……!」 崇史に似た黒豹はひたすらに腕を下ろす。 交差する鞭痕はますます腫れあがって、痛々しさは増すばかりだ。 了理は、チェロの演者が女装した男だということにも気づいた。 骨ばった身体に真っ赤なドレスを身につけ、長く伸ばした髪を揺らしながら音を奏でている。 叩かれる悲鳴は派手になるばかりなのに、まわりの客たち──貴婦人も、紳士も、仮面から覗く口許をゆるませている。華奢な青年が傷めつけられるさまを見て愉しんでいる。 この夜に、至極普通の価値観のものなど、なにもない。 なにがなんだか、分からない。 混乱の局地にいる了理に、かたわらの梟は語りかけた。 「私の息子はいい声を出すだろう?」 その一言は、彼らの正体を決定的なものにする。 「崇史を見つけたのも私だ。崇史は銀座のクラブママの息子でね」 鞭打ちの情景を眼前に焼きつけながら、了理は梟の独白を聞く。 「多くの男はママに興味を持った。彼女の父親はスウェーデン人だそうでね、その血を受けた類まれなる美女だ。しかしね、私は彼女より彼女の息子に興味を抱いてね」 嬉しそうに語る梟。 「崇史が幾つのときだったかな……随分前だ、忘れてしまった。兎に角、それから崇史は私と私の友人たちの性玩具になった」 とんでもないことを耳にした気がした。けれど非現実的な世界に迷いこんでいる了理の感覚は麻痺していて、すんなりと飲みこむ。 梟は、両手を軽く開いてみせる。 「子どものころの崇史は少女めいて、西洋の絵画から抜けだしてきたかのような天使の愛らしさだったよ。しょっちゅう、仲間たちと夜明けまで輪姦(まわ)したものだ」 輪姦という言葉を実際に使う人間が現実にいるんだなぁと、了理はぼんやり思った。 「崇史は、見こみ通り美しい男に育ってくれた」 話に耳を傾けながらも、黒豹の鞭使いに見惚れてしまう。ずっと観察していて分かったのは、一定のリズムを守るのではなく潮の満ち引きのように強弱をつけているということ。 「しかし、まさか、我が子まで崇史を所有したがるとは思わなかった。世の中分からないものだ、ははは……じつにこの世界は愉快だよ……」 鞭を止めた黒豹は、ブーツの踵を鳴らして白猫に近づく。黒豹に首筋を触れられると、白猫は耐え切れなくなったといわんばかりに膝から崩れ落ち、舞台に手をついてしまう。 チェロの音色は流麗に響き続ける。スポットライトは瞬く。 黒豹も膝をつき、小刻みに震えている白猫の素肌を鞭の柄で撫でる。撫でかたはなにかの魔法にかけているかのように淫靡だった。耳元で囁いてもいた。白猫は首を横に振る。 彼らの会話はフロアのざわめきと音楽にかき消されて了理まで届かない。けれど了理には、やりとりの内容を察することができた。 (もう終わりにするかって、聞いているんだ) 白猫は渾身の力をこめたらしい。舞台上に四つん這いの体勢になる。そのさまに拍手を送るギャラリーがいる。了理に聞こえるほどの大きな声も上げた。 「……もっと、もっと打ってぇ……!」 立ちあがった黒豹は彼に応える。適度な距離を取り、ふたたびしならせた一撃を落とした。 「あぁあッ……!」 腫れた傷痕に傷を重ね続け、白猫の全身には激痛が蔓延しているはずだ。それなのに自ら痛みを請う。この場所の非現実さに慣れてきてはいるが、やはり、了理には多くが理解できないままだった。 いつのまにかワイングラスを手にしている梟は、口許をほころばせている。 「黎生め、実に幸せそうだ……こうして酒を楽しみながら、息子の晴れ舞台を眺められて、私も実に幸せものだよ」 変幻自在の鞭さばきは、白猫の胴体をぐるりと絡めとるような動きも見せる。 「あれは巻き鞭というテクニックでね、なかなか難しいんだぞ」 梟が教えてくれた。了理は呆然としながら「そうなんですか……」と相槌を打つ。 「崇史は鞭の扱いに長けているからなぁ」 「はぁ……」 惚けたように相槌を返し続け、了理は舞台上に視線を注ぐ。 もう、目をそらせなくなっていた。 痛みのたびに漏れる白猫の悲鳴も、いつの間にか、心地いい。 |