Engage

 コツリコツリと足音がする。忍び寄るように響いてくる。
 黎生は背後から迫るその闇に怯えて、何度も振り返りながら、凍える夜を逃げ惑う。
 あいつに捕まったらすべての終わりだ。
 分かっているから必死に走る。けれど黎生の身体はとても脆弱だから、呼吸はすぐに苦しくなり、足はもつれた。
「はぁ……はぁ、はぁ、はぁ…………」
 鼓動の乱れる胸を押さえ、また後ろを向く。
 深淵の闇が近づいてくる。
 追いつかれそうだ……。
 恐怖感から泣きたくなるのはいつものことだった。悲痛に表情を歪める黎生はそれでも、思うように動かない身体を引きずって逃げる。肺も心臓も、痙攣しだす指先も視界をぼやけさせていく眼球も、憎くてたまらないけれど、それでも進むしかない。
 じょうぶな身体に産んであげられなくてごめんなさい──母親の贖罪の声を思いだした。
「はぁ、はぁ……はぁ……はぁ……、はぁ……」
 苦しい……もう走ることも逃げることもできなくなった。
 後ろを振りむくのが、怖い。
 恐怖のあまり涙を伝わせたとき、闇にそっと肩を叩かれる。

 漆黒の闇の正体は、鎌を持つ死神だ。

「…………!!!!!!!」

 真夜中のベッド、目を見開いて起き上がる。酷く息が苦しい。
「はぁ……はぁ……はぁ……ひッ、っ、うっ、ッ……う……」
 脂汗をじっとりとかいた手で喉を押さえる。
 苦しい。苦しい。苦しい──
 でも……誰にも助けを求めたくない。黎生を心配して同じ部屋で眠りたがる使用人たちを振りきって、やっとひとり部屋を与えてもらったのだ。優しくしてくれる人々に迷惑や心配をかけるのが、黎生にとってはとても嫌なことだった。
 毎晩悪夢にうなされているのは、黎生しか知らない秘密。
(だいじょうぶ……これくらい……だいじょうぶだから……なれているから……)
 薄闇のなかで、緑がかった青色の壁を眺め、すこしずつ呼吸を落ち着けていく。
 広い空間、もう身体が大きくなってしまって乗ることの出来ない木馬は飾りとしてそのまま置かれてインテリアとなっていた。いくつもある大きな窓は天井まで高く伸び、ひとつだけ飾り窓もある。そこに嵌めこまれているのは蔓薔薇を描いたステンドグラスで美しい。
 光の点滅が注ぎ、遅れて聞こえる雷鳴。
 呼吸が楽になってきて、窓を叩く雨にやっと気づく黎生だった。
 潤んだ瞳を擦りつつ外を眺めてみる。雷の光る夜空の下、ゴシック様式の鉄門をくぐる人影を見つけたから、目を凝らす。
 外灯に照らされたその影は、黎生の父親、穎一郎らしい。
 しかし、不思議なのはなにかを抱えていることだ。ブランケットに包まれた大きなかたまりで、穎一郎とそれが濡れないように気遣って運転手が傘をさしている。
(どうせ、パパのことだから、またヘンなオモチャをもらってきたのかなぁ……)
 頬杖をつく黎生の予感は的中して、ブランケットからは白く滑らかな素足が覗いた。
 生きているのか、死んでいるのか。
 呼吸も涙も落ち着いた。好奇心が湧いたし、あたたかなアールグレイも飲みたかったから、子どもには大きなクイーンサイズのベッドから軽やかに降りる。
 スリッパを履いて自室を後にし、階段を降りていくと、ちょうど玄関で穎一郎たちが老執事に迎えられているところだった。
 穎一郎は抱きかかえたまま、黎生に視線を投げかける。
「ただいま、黎生……出迎えてくれるのは嬉しいが、何時だと思っているんだね?」
「……ちゃんとねてたけどー、さっきおきちゃったの……おかえりなさい、パパ……」
 咎められたくない黎生は隠れるように執事の腰にしがみついた。本当のことでもある。
 穎一郎はブランケットのかたまりを運転手に渡し、靴を脱ぐ。
 そんな父親に、黎生は上目遣いで尋ねてもみた。
「ねぇ……それはなぁに……?」
 息子の質問に、穎一郎は表情を翳らせる。黎生は違和感を覚えた。
(あれ……?)
 いつもなら嬉々として、どんなものを手に入れたのか説明してくれるのに、今夜の穎一郎はため息さえ零す。
「……この子か──……この子はね……」
 穎一郎が重い口を開こうとしたとき、運転手の腕のなかで肢体がもぞついた。ブランケットがずれて、シャンデリアの明かりの下で露わになった顔立ちは美しくて──黎生は綺麗なお人形なのかと思う。
 しかし、切れ長の目は眩しげにしばたき、黎生をじっと見つめてもくるから、まぎれもなく生きものだ。
 端正な姿を引き立てるのは亜麻色の髪で、ひどく長く、腰に届くほど伸ばされている。
 黎生も見つめ返しながら、感嘆から顔を輝かせてしまう。
「すごくきれい……じいや、これって妖精なの……?」
 黎生に袖口を掴まれた執事は微笑った。
「おぼっちゃまがお間違いになられるのも当然の見目ですが、人間の男の子ですよ」
 スリッパに履き替えた穎一郎は、その少年の頬を指先でつつく。
「同い年の子どもを見るのは、初めてだったかな」
 触られても表情に変化はなく、ただ黎生に視線を注いでくる。だから黎生もじっと少年を見つめ続ける。ブランケットの下は裸なのかもしれない、と、いまさら気づく黎生の前で、大人たちは相談を始めた。執事は心配そうに眉根を寄せた。
「しかし……いったい、どうなさるおつもりです、穎一郎さま?」
「とりあえず地下に連れていこう。……いや、愉しむためだけに言っているわけではない。この子には地下のほうが落ち着けるだろう」
「……戸籍などは一体?」
「出生届は出してあると言っていたよ。名前もちゃんとある。崇史」
 執事は首を傾げた。
「おや、少々意外な……日本名でございますか」
「父親は日本人だ。つまり、クォーターということになるのかな」
 少年を抱かせた運転手と地下室に向かう前に、穎一郎は黎生の肩をそっと叩く。
「今夜はもう遅い。黎生の大好きなアールグレイを飲んだら、いい子に眠るんだよ。そのうち黎生にもこの子と遊ばせてあげるから」
「うん……パパ……」
 去り際に「黎生を頼んだよ」と執事に告げて、穎一郎は去っていく。慇懃に腰を折る執事の隣で黎生は彼らの姿が見えなくなるまで眺めてしまう。
 運転手の肩越しに、崇史もずっと黎生に視線を注いでいてくれたから──黎生は、この出逢いに運命的なものを感じずにはいられない。


   ◆ ◆ ◆


 毎晩、毎晩、悪夢は性懲りもなく黎生を蝕んだ。
 うなされる理由は黎生自身にも分かりきっている。
 死ぬのが怖い。
 一般的な多くの子どもたちよりも、黎生はそれを恐れていた。
 大人たちは上手くはぐらかして安心させようとしてくれるけれど、きっとみんなよりも早くその瞬間が訪れるであろうことにはとっくの昔に気づいている。人より多く病院の匂いに浸っていること、運動会も見学していること、体調を崩してよく休むためにクラスには陰口を叩く者もいること。
 財閥の流れを引く真堂家の令息である黎生に、面と向かって告げる生徒はいなかったが、子どもならではの無邪気さで残酷に嘲笑われているのを知っている。
「はぁ……、はぁ……はぁ、はぁ、はぁ……」
 今夜もうなされて、はだけたパジャマの胸を掻きむしり、そうしているうちに目が覚めた。
 死神はいつものように背後から鎌を振り下ろして殺そうとした。
「…………うぅ……、いやだ……、こないで…………」
 開く瞳から涙が溢れる。鼻水を啜る。しゃくりあげていると器官が詰まり、噎せてしまう。
 派手に咳きこんで誰かに気づかれたくはないから、黎生は布団にもぐりこむ。
(……ゲホっ、けほっ、ゲホっ……!)
 苦しい。悲しい。大好きな父親の跡だってちゃんと継ぎたいのに、こんな身体では叶わないかもしれない。
(……いったい……僕は……なんのために生まれてきたんだろう)
(……みんなに迷惑をかけるために? 悪口を言われるために?)
(……苦しむためだけに? 僕は前世にとてもわるいことをしたの? そのための罰なの?)
 考えるほど、余計に悲しくなる。
 まだ軽く噎せながらも、黎生は身を起こした。窓の外を見る。
 今夜は満月が綺麗だ。
 抜けだそう……と思った。見つかると叱られるけれど、月下の薔薇庭を散歩するのは黎生の好きなことのひとつだ。夜中に味わうアールグレイとおなじくらい、好い。
(……こんなにきれいなのに……あのオモチャはひょっとして……生まれてから一度も……月を見たことがないのかな……)
 窓ガラスに頬を寄せつつ、いまも地下にいる崇史のことを考える。
 穎一郎に捕まった当然の末路として、愛好者たちに手籠めにされているし、黎生の妹の舞花も等身大の着せかえ人形が手に入ったと大喜びだ。フリルのブラウス、コルセット、ランジェリー……真っ赤な口紅……髪は麗しく巻かれたりする。日本人離れした足の長さをしているのでどんなお洋服も似合うのだと舞花は嬉しそうに語った。
『おにいさまも、すなおに、おあそびになればいいのに……ほんとうは気になっているくせに……』
 年齢の割にませた妹に勧められても、黎生は崇史と触れあおうとはしなかった。それは……
(……こわい……だっていままでにない、なにかを感じたから……)
 出逢った夜、瞳をそらせなかった。一瞬で彼を形成するすべてのパーツを気に入ってしまった。
 まだ一言も交わしていないのに、こんなに惹かれている。もしも崇史のことをもっと知ってしまったら、どうなってしまうのだろう……未知の世界に踏みこむ不安。
 死ぬのも怖いし、好きなものに近づくのも怖い。
 臆病な自分に、黎生はふっと含み笑いを零した。
(……僕はよわいなぁ……)
 このまま、臆病なままでいるのも癪だった、勇気を出してすこしだけでも彼を知ってみようか。
 今夜は月の光が優しく背中を押してくれているような気がしたから、黎生は足音をさせないように素足で部屋を後にする。
 書斎に忍びこみ、隠された螺旋階段を降りていく。
 降りきった底には鉄の扉があり、内部を厳重に封じているけれど、開く暗証番号なら黎生は暗記していた。たやすくロックを解いて、幽霊城の趣漂う廊下を歩き、地下の寝室に近づいていく。
 入り口は開け放たれて談笑の声が聞こえてくる。たくさんの大人たちが訪れているようだ。
「崇史は筋がいい……すぐに覚えて悦ばせてくれる……」
「いままでまっさらな世界に居たからかもしれないね。何でも旺盛に吸収して……」
 もっと声を聞きたくて壁際に身を寄せたとき、部屋のなかから話しかけられた。 
「……誰か……いるのかね……?」
 彼らの秘密の遊戯場に、勝手に立ち入ったことがばれたら、咎められてしまう。
 黎生は心臓を鷲掴まれたように震えてから、そばにある浴室に身をひそめた。寝室と繋がっているそのスペースには廊下からも出入りできる。真っ暗な空間、タイルにしゃがみこんでしばらく過ごしたが、黎生の怯えとは相反して何も起こらない。
 ほっとして立ちあがると、アンティークなノズルに肩をぶつけてしまった。痛みに顔をしかめると同時に降りだすシャワーの雨。温水だったのは唯一の幸いだ。
(……なにやってるんだろう……僕……)
 頭から濡れて立ち尽くし、苦笑する。ただ崇史のことが気になるだけなのに……。
 浴室の明かりがついた。見つかって叱られる覚悟は出来ている。
 しかし、寝室側からの扉を開けて入ってきたのは崇史だった。バスタオルだけを抱えた裸身は汗ばみ、ローションと体液に塗れている。拘束されたらしい鬱血痕や、擦過傷、叩かれた痕も素肌に散らばって、生々しくプレイの余韻を黎生に伝えてきた。
 腰まであった髪は、黎生の知らないうちに胸まで切られている。
 出逢った夜と同じように、崇史に感情の色は見られない。
 しばらく無言で見つめあっていたが、崇史は素足で近づき、黎生の手首を力強く掴んだ。
(……えっ…………)
 驚く黎生をシャワーから剥がし、濡れたパジャマごとバスタオルで包んでくれた。黎生は戸惑いながら崇史を見上げる。黎生よりも背が高い。
「あ、あ……りがとう……」
 崇史からは大人たちの濃厚な精液の匂いがして、美しく整った顔と距離が近くて──かつてないほどのときめきと混乱に呑まれた黎生がしたのは、崇史の唇にキスをすることだった……深く考える前に衝動的に動く身体。
 崇史は蠢く黎生の舌を受け止めてくれる。確かに崇史の舌遣いは、短期間で身につけたというのなら大した上達ぶりだ。
 夢中で口づける黎生だったが、さすがに苦しくなって、溢れる唾液とともに唇を離した。
「ぷはっ……!」
「…………」
 崇史は垂れた涎を雑に拭う。黎生は耳まで赤くしながらも勇気を振り絞る。
「……あ、あの……僕は……黎生っていうんだけどっ……」
「…………」
「僕の言っていること、わかる……? ……黎生って、よんでみて……」
「……レオ……」
「そう……そうなの……おまえとなかよくなりたいな……」
 黎生は腕を伸ばし、崇史の頬を撫でてみる。
 すると崇史は瞼を閉じて、心なしか、快さそうな表情を見せた。
 黎生は嬉しくなりくすっと笑む。
「かわいい……大きなイヌみたい……イヌっていうよりおおかみとか、ヒョウなのかな……飼いたいなぁ……ずっと大事にする……おまえは賢いらしいから、いろいろな芸もおぼえられそう」
 僕のオモチャになって、と請おうとしたとき、大人たちに見つかってしまう。
 結局、黎生はすこしだけ叱られてしまう。上階に戻されて、執事に髪を乾かしてもらいながらも、崇史と初めて触れあえたから、名前を呼んでもらえたから、まだどきどきは続いている。


   ◆ ◆ ◆


 今夜も真堂邸の地下では、ホームパーティーが開かれている。
 体調の良い黎生はひさしぶりに顔を出すことにした。お気に入りのブラウスに半ズボン、太腿をあざとく見せてハイソックスを穿く。
 襟のリボンを使用人に結んでもらった黎生は自室を出て、向かうのは妹の部屋だった。
 ノックして開けると、ドレッサーの前に座る舞花と崇史がいる。
 舞花はおめかししているけれど、崇史は素肌にバスローブ姿だった。舞花にブラッシングされて艶めく亜麻色の髪。ふたりの姿を微笑ましげに眺めながら談笑する家政婦たち。
 黎生に気づいた舞花は嬉しそうに、崇史の髪のひと房を掴んだままで問いかけてくる。
「おにいさま、きょうはどんなかみがたにする?」
「どうって……べつにマイカの……好きなようにすればいいし……」
 本当は巻いて欲しくもなかったし、舞花とお揃いのように編んで欲しくもなかった、そのままの崇史が良かったけれど、照れくさくて言えない。しかし、家政婦がカールアイロンを温めようとするのを見て、慌てて黎生はドレッサーに駆け寄った。
「やっぱり、このお人形はオスだから、そういうのはだめ……!」
 切羽詰まったような黎生を見て、舞花は肩をすくめる。
「はじめからそういえばいいのに……じゃあ、今日はストレートにする、おにいさま」
「……お洋服もふわふわのひらひらは、僕のいないときに着せてあそんでほしいな……」
「おにいさまとおそろいにしましょう?」
 すでに部屋に用意されていた幾つものハンガーラックから、心得たとばかりに家政婦たちは崇史にぴったりな白のブラウスと半ズボンを用意する。ひとりが「こういったものはいかがでしょうか」といくつかのソックスガーターを持ってくると、他の家政婦と舞花は嬌声をあげて楽しそうに選びだす……舞花がませているのは家政婦たちのせいもあると黎生は思っている。
 スツールから立たされた崇史は女たちの手でためらいなくバスローブを奪われて、その下は裸身だ。崇史は羞恥を感じないのか無表情だが、見ている黎生のほうが赤面しそうになる。
 そのまま素肌に着せられていく姿に、黎生は舞花に尋ねた。
「あのさぁ……下着とかはないの……?」
「学校のおともだちのきせかえ人形も、はいてなかったから」
「それって生身のお人形じゃなくて、本当のお人形の話だよね?」
 黎生が呆然としているあいだに崇史は完成していく。黎生は出逢ったときのように瞳を奪われる。
 髪は後ろでひとつに結ばれ、外国の寄宿舎にいる美少年のような風貌になっていた。
 舞花は、革製の首輪も黎生に渡してくれる、嫣然と笑みながら。
「どうぞ……おにいさま……マイカはおにいさまの悦ぶお顔がせかいでいちばんすきなの……」
 背伸びをしてそれを嵌めようとすると、崇史はその場に膝を落としてくれた。締められるときは瞼を伏せておとなしくしている。黎生は指先が震えそうなほどの歓喜を覚え、このまま本当に崇史を自分だけのオモチャにしたいと思った。
 そんな黎生を見つめる舞花も満足げだ。
 この手にリードを握り、黎生は舞花の部屋を後にした。舞花はまだ身支度があるらしい。
 ふたりきりで廊下を歩いて、書斎の隠し階段を降りて向かう地下。
 今夜は黎生も招かれているから、堂々と入れる。後ろをおとなしくついてきてくれる崇史に、黎生は嬉しく振り向いた。
「おまえは従順でいい子だね」
「……ジュウジュン……」
「あ、むずかしい言葉は、まだわかんないのか……えっと、すなおでいい子って意味だよ」
 崇史からの返事は、黎生にとっては予想外なものだった。
「レオも、すなおでいいこだ」
「え……?」
「みんなレオをほめている」
 あまりに驚いたから、階段の途中、黎生は歩を止める。いきなりだったので、崇史はつんのめってバランスを崩しそうになって、黎生は慌てて「ごめん」と謝った。
「そ、それはたぶん……おじさまたちにときどきサービスしてあげるのが、ちょっとじょうずってだけなんじゃないのかな……?」
 崇史は、首を横に振る。
「レオはもっとじしんをもっていい」
 ふっと屈託なく笑いかけてもくれて、その瞬間に黎生の心はすべて奪われてしまう。
(……いつのまにそんな顔をおぼえたの……?)
 惹かれている、気になる、そんな生易しいものではなくて、独占欲や、自分のことをもっと知ってほしいという想いも湧きだしてくる。
 最後の段差を降りたとき、開け放たれている鉄の扉のそばには出迎えの大人たちがいた。穎一郎と親しい、ちょっと人には言えないような趣味を持つ者たちだ。彼らは黎生と崇史を迎えると、会場となる大広間までエスコートしてくれた。
 その場には黎生たちの他にも容姿の整った少年たちがはべらされていて、最近テレビでよく見る天才子役の姿もあった。黎生は名字だけ記憶にある。
(アエバ……なんだったっけ……下の名前わかんない、まぁいいや)
 何度も戯れたことのある男が、色とりどりのデザートのなかから黎生の好きな白桃のタルトを持ってきてくれる。また別の男はアールグレイを用意してくれて、黎生は機嫌よく口角を釣り上げた。
 彼らに太腿を撫でられたり、手がすべったと冗談めかして敏感なところも触られるのも黎生は決して嫌ではない。しかし、黎生の隣に座る崇史について大人たちが話す内容が気に障る。
「穎一郎社長も、また類まれなる逸品を手に入れたものですな」
「譲っていただけるというのなら、億単位で積む輩がわらわらと出てきますよ」
「この場にいる人間は、みんなそういう輩ですよ……」
 クスクスと笑いながら、崇史の顎を掴んで美貌を覗きこみ鑑賞したり、早くもブラウスのボタンを開いて素肌も晒そうとしている。
 不覚にも、黎生がタルトに喜んでいるあいだにいつのまにかリードの持ち手も男たちに奪われていた。やはり崇史はツンと澄ました顔をしていて、なにをされても平然と感情なく過ごしている様子に対しても、なんだか黎生は苛立ちを覚えてくる。
 せっかくの上機嫌も台無しで、ソファを立ち、言い捨てた。
「……このオモチャは……パパにおねだりして僕だけのお人形にするの……どれだけお金をつまれたって、えらいひとにゆずってって頼まれたってわたさないんだから……!」
 男たちが制止する声も聞かずに、黎生は駆けだし、地上に戻る。
 天才子役が呆れたように「なにあれ、ヒステリーかよ」と呟いたのも黎生に響き、まさにその通りで自分のことが嫌になる。
 

   ◆ ◆ ◆


 人々が崇史を愛玩したがるのは仕方ないと思う。あれほどに美しい生きものはなかなか見つけられないだろう。
 それは分かっている……けれど黎生は嫉妬におかしくなりそうで、悶々とした日々を過ごすのだった。
 穎一郎から正式に譲ってもらって、所有物にして、崇史のすべてを管理した上でなら、大人たちに貸しだすのも自慢のようで優越感すら味わるかもしれない。
(……やっぱり……パパにもっとちゃんとたのんで、あのオモチャを手に入れたい……でもオモチャは僕をどう思っているのかな……)
 改めて決意して、いつもは使用人が持っていく崇史の夜食を、自ら地下に運ぶ黎生だった。一緒に階段を降りてきた執事は、暗証番号を解くと上階に戻る、微笑みを残して。
 黎生はひとりで地下領域に足を踏み入れる。寒々とした幽霊城のようなこの空間の寝室で崇史は寝起きしていた。
 そろそろ表に出してもいいのでは、学校に行かせてもいいのでは、と進言する使用人もいるけれど、穎一郎は頷かない。
『あの子には、まだ覚えることがたくさんある』
 寝室の扉は開け放たれていたから、黎生はお盆を手に持ったままスムーズに入れた。
 薄暗さのせいもあって、崇史がどこにいるのか分からない。
 しばらく見回してやっと、行為を楽しむために特注の広さのベッドの片隅、頭からブランケットを被り、身を縮めるように丸くなっているかたまりに気づけた。
 黎生はベッドサイドのテーブルに持ってきたものを置く。
「……起きてるの? 起きてるのなら明かりをつけなきゃ……目が悪くなっちゃうんだよ」
 照明をつけにいって、明度を上げても、崇史はそのままでいる。
 なんだか、かわいくて苦笑してしまってから……
 残酷なことに気がついた。
(……もしかして……僕のお家に来るまでは……ずうっとそうやって過ごしてた、とか……)
 ぞっとする。
 その場所は真っ暗で狭かったのかもしれない。
 ごくりと唾を呑む黎生の視線の先でかたまりはもぞつき、ゆっくりと顔を出した。銀色のお盆を見つけた崇史は、裸に誰かのワイシャツだけを着た身体で這いずってくる。椅子に移ることなくベッドの上から腕を伸ばし、そのまま手づかみでラズベリーのケーキを口に運び、がつがつと勢いよく食べはじめた。
 様子を聞いてはいたが、ここまでとは知らなかった黎生は驚きながらも、崇史の手首をぎゅっと掴む。
 父親の言葉の理由もやっと実感できた。
「こらっ、使いかたをおしえてもらったんだよね?」
 黎生もベッドの縁に腰かけ、生クリームに汚れた指先を舐めてやり、フォークを握らせる。崇史はじっとフォークを見つめてから、食べづらそうに、不慣れそうにケーキをつつきだした。
「……本当はデザートはさいごに食べるものなんだよ……順番があるんだから。それと、いただきますも言わないとだめなんだからね」
 あっという間に平らげると、ケーキとともに用意されたサンドイッチにフォークを伸ばす。旺盛な食欲の崇史を見守りながら、黎生は亜麻色の髪を撫でまわした。
「それは手で食べてもいいよ。おまえにも食べやすいものをって……じいやが近所の喫茶店のサンドイッチを買ってきてくれたの」
「キッサテン」
 フォークを置いた崇史は首を傾げ、黎生も首を傾げる。
「えーっとぉ……コーヒーとか、パフェとかを出してくれるおみせのこと?」
「コーヒーはわかる」
 崇史はベッドを降りた。床に放られていたスケッチブックと鉛筆を拾うと、また戻ってきてページをめくる。
 黎生は驚き口に手を当てた。
「すごい……これ……かいたの……?」
 びっしりと埋め尽くされた言葉と意味と説明図も添えられていたりもして、絵図に関しては黎生よりも上手い。開いているスペースに崇史は角ばった癖のある字でさっそく教えられた単語を書き留める。
 漢字を聞かれたけれど『喫』は黎生にも分からない。
 パフェについては、甘くておいしくてご褒美のような食べものだと教えてあげた。
『従順』も書いてあったのを見つける黎生に、崇史は尋ねる。
「レオは漢字でどうやってかく」
「口で言うのはむずかしいよ」
 崇史から鉛筆を受け取って『黎生』と書いてみた。崇史は寝室のテーブルにもともとあったグラスの水を飲んでから「生きるはわかる」と呟く。
 黎生はふっと表情を翳らせた。
「……僕とは正反対のことばだよ。たぶん、みんなよりも早く死んじゃうのに……」
 毎晩死神にも追い立てられている。ひどく怯えながら暮らしている。眉をひそめる黎生の前で、崇史はやはり平静な顔のままだった。
「おれより先に死ぬのか」
「うん……きっとね……」
「おれはレオをわすれない。それならレオはここで生きている」
 崇史は自分の胸に拳を当てた。
「それでもまだこわいか?」
「…………」
 消えてしまうことの恐怖に蝕まれているなんて一言も発していないのに、どうして伝わっているのだろう。黎生は不思議に感じたし、嬉しくもなる。理解されているような心地になれた。
 嬉しさと感動のまま崇史に抱きつき、シーツに崩れ落ちる。一緒に寝そべりながらも崇史は黎生をただじっと見ていた。
「うん……こわい……こわいよ……」
「そうか」
「そうかって……なにそれ……、ふふっ……」
 安心させてくれようとする人や、親切な人のように、気の利いたセリフなど崇史に言えるはずがない。けれど逆に黎生は微笑ってしまう。体温に身を寄せているだけで癒された。
 軽くキスしてから、黎生はやっと素直な想いを零すことができる。
「……僕のそばにいて……パパよりもおじさまたちよりも大事に飼うから……僕だけのオモチャ、お人形になってほしい、その目になにが映っているのか、なにを考えているのかをもっと知りたいし、僕のことももっと知ってほしい」
「おれもレオにならジュウジュンでもいい」
 黎生は信じられないほどに安らぎながら、崇史の声を聞いていた。
「はじめて見たときからきれいだと思った。母親のそばをはなれて、ここにきてからいろいろ見たが、おまえがいちばんきれいだ」
「ぼ、ぼくは……きれいなんかじゃないよ……」
 崇史のほうがずっと綺麗だ。黎生は照れ隠しもあって話をそらしてみる。
「ねぇ……月って見たことある……?」
「ショサイのズカンで見た」
「本物を見よう……?」
 そうと決まれば、食事を終えた崇史の腕を引いて地下を抜けだす。
 素足のままで薔薇園に出すのはかわいそうかなと思ったけれど、汚れはあとでシャワーで洗ってあげることにした。



 その夜の黎生は、どれくらいぶりなのか自分でも分からないくらいひさしぶりに、悪夢を見なかった──