Pledge

 崇史にとって、学ランは窮屈な感じがして、あまり好きではない。
 授業中は一応着ているが、放課後はすぐに脱ぎ、ぎゅっとデイパックに突っこむ。それについて黎生はしつこく『シワになっちゃう!』と注意してきたが、最近は諦めたらしくなにも言わなくなった。
 その黎生は体調を崩して休んでいる。よくあることだ。昔から、月に一度は熱を出しているのではないだろうか。
 崇史は学ランの代わりにグレーのジップパーカーに袖を通して、胸元までファスナーを上げた。ひとりで校舎を出て、最寄駅から電車に乗り、途中で乗り換えて恵比寿で降りる。
 改札を出て少しばかり歩き、指定された喫茶店に入った。
 待ちあわせの相手はすでにカウンター席で珈琲を楽しんでいる。崇史よりもさらに色素が薄く、日本人離れした顔立ち、白金のような髪色に和服姿はとても目立つのですぐに見つけることができた。
 崇史は隣に腰を下ろし、するとさらに目立ってしまうのか、店中の視線が集まる。だが、崇史は特に気にならなかったし、崇史の母親のリネアも気にならないらしい──人の目を気にする性格なら、もっと地味な格好をするだろう。
 リネアはメニュー冊子をそっと崇史の前に滑らせる。おしゃれな彼女は指先まで綺麗で、いくつかの指輪を光らせ、爪は上品に整えられたフレンチネイル。店員が水とお絞りを出してくれたついでに、崇史はメニューをそう見ることなくアールグレイを注文した。
 カップを口許に運びながら、リネアは肩をすくめる。
「ここはコーヒーが美味しいのに」
「今日は紅茶の気分なのだ」
 黎生と会っていないからかもしれない。黎生の大好きな味と香りに触れたかった。リネアは頷く。
「そう。でもまぁ、紅茶も美味しいお店だから」
 頻繁に会っているわけではないので、互いの近況などを語りあう。
 ほどなくして、崇史の元にポットとカップが運ばれてきて、それを注いで味わい、話を続けた。
 リネアはゴルゴンゾーラのチーズケーキをふたつ頼んで、崇史の前にも皿が並んだところで、急に切りだす。
「あのね、お母さん、お店を閉めて引っ越すことにした」
 ……不意打ちすぎて、言葉を失ったまま、真顔でリネアを見る。
 その表情はリネアに微笑された。
「どうしたの、そんな顔して」
「なにか、あったのか」
「別に。なにも……、なにもないからかもしれない。気分転換を図るというかね。三十も半ばを過ぎたし、引退してもいいかなとか」
「まだ若い」
 母親にとってどれだけあの仕事と店が大切か、知っているからこそ驚きは大きく、眉をひそめる。崇史は、リネアは一生銀座にいるのだろうとばかり思っていた。
 リネアはケーキをフォークの先でつつく。
「うーん、でも、人生も中盤に入ったのは確か。ずっと仕事しかしていないから、ちょっと休んでもいいんじゃないかって思って」
 そう言ってから、ひとくち運んだ。
 崇史もフォークを手に取り、咀嚼する。店内に流れるジャズに耳を傾けながら、リネアの言葉と気持ちを整理し……やっと頷く。
「確かに働きづめではあったが。穎一郎さんや、客には言ったのか」
「崇史に初めて言った、まだだれにも話していない」
「そうか」
 リネアの意志は固そうだ。崇史はふっと息を吐く。
「それで、母さんは何処に引っ越すつもりなのだ……」
「イギリス」


   ◆ ◆ ◆


 豆電球のやわらかな明かりの下、寝そべって絵を描いていたら、ロフトの下から声がする。
「崇史、起きてるなら、おやつにしよう?」
 身を起こしてスケッチブックを閉じる。それを置いて、カーテンを開けてハシゴをすべり降りた。
 眼下のリビングでは、リネアはすでに飲みものとお菓子の準備をしていて、それがコーヒーとドーナツという名前であることくらいは、一日のほとんどをロフトで過ごす崇史も知っている。
 ラフな部屋着のリネアが待つソファに、素足で近づく。リネアのワイシャツをワンピースのように纏った崇史に、リネアはすこしだけ、困った顔をした。
「ボタンのかけ方が、めちゃくちゃ……まぁ、いいか」
 そのまま放っておかれた。崇史も、上手くやり方がわからない、と伝えることもない。しゃべりなれていない崇史にとって、発声するのはとても頭と力を使う面倒なことだった。ただでさえ言葉をそれほど知らないから、使える単語も限られている。
 リネアはとても仕事が大事で、崇史になにかを教えることに時間を割かない。そもそも帰宅して休む時間もわずかだった。
 そんなリネアでも、ときどき、崇史に教えたがるものがある。
 並んでソファに座り、いただきますの作法も知らない崇史がさっそくドーナツをほおばっていると、目の前のテレビという箱にスイッチが入れられる。崇史は動作を止め、まばたきもせずに、チャンネルを変えていくたった一瞬ごとに映る色と情報を貪欲に吸収した。
 たくさんのスーツ姿の大人たちが、わらわらと集まって声高に話しあう画面にされると、それは何度も見たことのある情報だから、崇史は食事を再開する。
 二個ほど胃に入れたところで、ミルクと砂糖で甘くしてもらったコーヒーのマグカップを両手で持って飲んだ。
 リモコンを置いたリネアは、ゆったりとくつろいで画面を眺めている。ある男が映ると、いつものように嬉しそうな声になる。
「ほら、崇史のお父さんだ」
 と、言われても、崇史にはしっくりこない。
 髪色や彫りの深さが、崇史やリネアとは違うせいもあった。
 テレビに映るほとんどの人たちと、自分たちの外見がやや異なるのを不思議だとは以前から思ってはいるが、気になって眠れないほどでもない。三個めのドーナツを口に運ぶ。
「崇史って名前も、お父さんがつけてくれたんだよ」
 そうなのかと頷いた。フレンチクルーラーを食べながら、崇史の頭のなかの辞書が新しい事実を記憶する。
 タカフミというナマエはチチオヤがつけた。
 小腹が満たされて元気が出たので、知っていることを言葉にする。
「チチオヤは、ダイジンで、コッカイで、シゴトをしている」
「そう、賢いなぁ、崇史は」
 リネアはマグカップ片手に微笑む。
「お母さんの仕事は?」
「シゴト……ギンザ、くらぶ」
「賢い、賢い、さすがはあの人の子だ」
 くしゃくしゃに髪を撫でられて、頬にキスもされる。崇史の視線の先で、国会中継は終わり、ニュース番組のスタジオに戻った。


   ◆ ◆ ◆


 真堂邸に寄って、黎生の部屋を覗き、今日の出来事を話した。
 パジャマに厚手のガウンを羽織った黎生は──体調はいくらか良くなったようだ──ベッドに腰かけたまま不機嫌そうに顔を歪める。
「へぇ、そうなんだ、何処にでも好きなところに引っ越せばいいよ」
 リネアが嫌われて当然ということも、黎生の意見が正しいというのも分かっているので、ぞんざいな言いようにも崇史はなにも返さない。黎生の椅子に腰かけ、学習机に飾られたガラスのペガサスを手に取る。さすがにこれは自分では作れなさそうだなと思いながら観察していると、苛立った声で「崇史」と呼ばれた。
「聞いてるの? そもそも、あんな女とはもう会わなくていいんだ」
「そうだな」
「そうだなって……このあいだもそうやって答えたじゃないか。それなのにまた会ったりして……! どうして俺のいうことが聞けないの?」
「大事な話があると言われたからだ」
 結果、やはり大事な話ではあった気がする。
 ペガサスを置いて、黎生に向いた。
「罰は受ける。お前の好きに嬲ればいい」
「なに、それ……!」
「事後報告になって、すまなかったな」
「…………」
 崇史は、口を尖らせた拗ね顔の黎生を眺める。
「俺は母親を恨んでなどいない」
「そう言うけど……許せないよ……自分の子どもをずっと閉じこめて、生きるために必要なこともろくに教えずに……プレイでも嗜好でもなくて、ただ自分の保身のためにそんなことをするなんて」
「本人も悩んでいた。だからお前の父親に相談した」
 銀座の仕事に慣れてきて、これからというときに客の子を身ごもったリネアがしたのは、子どもの存在を隠すことだった。
 あと一年だけ、あと一年だけ、そのうち我が子とちゃんと暮らしていく、と思いながら働いているうちに店を持つ身となり、歳月は経つばかりで、どんどん取り返しがつかなくなっていったようだ。
 黎生は皮肉げに笑んだ。
「確かに、俺のパパなら、なにを打ち明けられても引かないからね」
「少し変わっているが、悪い女ではないのだ」
「……罰として、一晩中そばにいて……添い寝して」
 今回の出来事はそれで相殺されるらしい。
 崇史はベッドに移動する。黎生の隣に座って、返事の代わりにキスを与えた。黎生の身体はまた細くなった気がしたが、崇史にはただ、抱きしめることしかできない。
 

   ◆ ◆ ◆


 今日も下校路はひとりだ。降りるのは崇史も通っていた中等部の最寄り駅だが、母校に寄るわけではなく、向かうのは近くのホームセンター。入口前にたたずむ舞花を見つけて声をかける。
「待たせたか」
 舞花は嬉しそうに微笑み、ふたつ結びの髪を揺らし、当然のように学生鞄を預けてくる。
「ううん、マイカもいまきたの!」
 中等部には寄り道禁止の校則があるものの、中学生のときの崇史も守っていなかった。先輩として注意できる立場ではなく、むしろ助長してしまっている。
 店内に入り、舞花の欲しがる製菓用品を見てから、拘束具や拷問具作りのパーツを調達した。すべてがホームセンターで手に入るわけではないが、ちょっとした金具類などは十分に揃うし、他にもプレイに使えそうだと感じたものを買ってみたりもする。
 ボールギャグに使うホローボールをカゴに入れると、舞花は不思議そうに尋ねてきた。
「こないだも買ったのに、また買うの?」
「消耗品だ」
 すぐに黎生は噛み潰してしまう。舞花は妖しく微笑んだ。
「ふふっ……崇史さんがいじめすぎるから」
「甘やかしたほうがいいか」
「それは絶対にだめ」
 崇史は頷き、共犯者の薄笑みを返す。
 園芸コーナーも見てレジを済ませ、その買いもの袋も崇史が持ってやる。少し先を歩く舞花は自販機の前で止まる。舞花はペットボトルのミルクティ、崇史は缶のブラックコーヒーを買って、腰を下ろすのはそばにあるベンチ。舞花は庶民の暮らしに興味を抱き、舞花なりに親しんでいるふしがあった。兄の黎生よりも馴染んでいるだろう。
 ひとくち味わってから、舞花は思いだしたように尋ねてきた。
「ねぇ、崇史さんっ、本当に経済学部にいくの?」
 それでいいのかと言いたいらしい。
 崇史は眉根を寄せる……学校の教師にも、師事している洋画家にも、穎一郎にも、散々おなじことを言われてうんざりしていた。
 黙っていると、やはり彼らとおなじような言葉が続く。
「美大にいかなくてもいいの? 大学までお兄さまのご希望に添わなくとも、いいと思うのだけど……」
「確かに、専門的な学校というものは興味深いが──……試験のためにデッサンをするなど、気が乗らんにもほどがある」
 そもそも、大人たちに『才能を活かしなさい』と説得されても、崇史は金銭を得る手立てにしたいとも、名声を得たいと思ったこともない。好きなように好きなものを作れればそれでいい。
 作ったもので黎生あたりが喜べば、それもそれでいい。
 頼りなく揺れる豆電球の明かりの下に寝そべり、時間の流れなど感じることもなくだらだらと好きな絵を好きなだけ描いていた幼いころと、崇史の気持ちはあまり変わっていなかった。
 舞花はくすくすと微笑いだす。
「崇史さんらしい……! 美術の学校に行かなくとも、崇史さんはすでにもう芸術家ね」
 物分かりが良く、内心ほっとする崇史だった。
 舞花にまで説得されはじめたら、さらにうんざりしていただろう。
 舞花は、今週末に迫ったリネアの出国の件についても尋ねてきた。
「お義母さまのお見送りはどうするの?」
「黎生には悪いが、行くつもりだ」
「お兄さまなんて放っておけばいいの、いじけてるだけだから……。マイカもひどいことをするお義母さまって思うけれど、崇史さんが許したのだから、お兄さまがあれこれ言ったってどうしようもないわ」
 すらすらと述べる舞花に、崇史は苦笑した。
「舞花は、黎生とどちらが年上なのか、分からんな」
「男のひとが、いつまでも子どもすぎるの!」
 確かにそうなのかもしれない、ロフトのなかでスケッチブックを広げる自分を思い描いて、頷く崇史だった。


   ◆ ◆ ◆


 空港内で軽く食事をし、店を出て幾らか歩いたところで、リネアは「ここでいいわ」と立ち止まった。
 すでに荷物はロンドンに送ってしまって、スーツケースひとつの身軽さだ。引っ越しというよりも、ちょっと旅行に行くような姿だった。今日も和服がよく似合う。
 レースの手袋を着けた指先で帯留めを弄りつつ、崇史と、崇史についてきた舞花を見つめる。すると感受性の強い舞花は、大きな瞳を潤ませ、泣きだしてしまった。
「お義母さまっ……あぁ、なんだか、二度と会えないわけじゃないのに、お別れはとてもさみしいっ……」
 なぜいま涙をぽろぽろとこぼすのか、崇史にはよく分からないので、不思議だなと観察する。リネアは微笑し、舞花の両手を取る。
「遊びに来て。ね、舞花さん」
「お義母さまのこれからの人生に、幸多きことを、祈っています」
 握手をして、軽くハグしてから、彼女たちは頭を下げあった。
 それから、リネアは崇史も抱きしめてくる──
 崇史は無表情のままでされるがままに立ち、舞花はさらに泣きだしレースのハンカチを取りだした。
 しばらく後、解放された崇史はリネアを見下ろす。
「気が済んだか」
「うん、済んだ、崇史も遊びに来て。黎生さんとも」
「黎生は──……」
 難しいだろう。リネアに対する感情のためではなく、長時間のフライトに耐えられそうもないからだ。
 おそらくどんどん、難しくなる。
 崇史と出会う前は中学生まで生きられないと言われていて、それを乗り越えても高校生まで保たないと言われ、現在は成人出来るだろうかと言われている。黎生は死の宣告を何度も覆したが、それでも、日々の体調はゆるやかに悪くなっているように見ていて思う。
 旅立つ母親に対し、それは無理だとばっさり現実を告げることはできず黙っていると、パーカーのポケットで、携帯電話が震えた。
 取りだせば、黎生からの着信だった。
 舞花は兄妹の勘なのか、真っ赤な目で崇史に聞く。
「もしかして……お兄さま?」
 頷いてから出ると、黎生の呼吸は乱れていた。
 崇史は眉間に皺を寄せる。
「どうした」
『……どこ……、どこにいるの……、もう、行ってしまった……?』
「まだだが」
 場所を聞かれて、目印になるものを答えた。チェーン店のカフェの近く。何事かと首を傾げるリネアを視線の先に映しつつ、崇史は「走るな」と注意した。全力疾走は、黎生の身体には大きな負担になる。
 通話は切れ、人通りを掻きわけるようにして、黎生は辿りつく。
 品のいいスーツ姿だったので、崇史は驚く。舞花もまばたきを忘れてしまって、口許を手で覆ったが、すぐに黎生に寄り添って支えた。
 黎生を送ってきたのか、さらに遠くのほうには瀧川の姿も見える。
 黎生は苦しそうに胸を押さえながらも、口を開いた。
「……やっぱり……ちゃんと挨拶しておかないと、駄目だと……思って……! 俺は……真堂家を継ぐ……次の当主だし、舞花の兄で……崇史の……」
「お兄さま、無理をしないで」
 舞花に諭された黎生は、呼吸が整うまで、言葉を止めた──落ちつくと、黎生は鋭くリネアを睨みつける。
「貴女が、崇史にしたことは許せないし、許すつもりもない……!」
 まっすぐに見つめられても、リネアは目をそらさないが、悲しげに眉根を寄せた。黎生は言葉を続ける。
「だけど……貴女が、悪人じゃないことも分かってる。反省していることも……崇史をちゃんと愛していることも……罪の意識を持って去っていくことも……」
 黎生は深く頭を下げた。
「崇史を残していくのは不安かもしれないけれど、俺に任せてください。安心してください。この生涯をかけて愛します。約束します!」
 さすがに何事かと、こちらを見ていく人もいるが、黎生は気にしていない。それはリネアも同じだった。
 リネアはいまにも泣きだしてしまいそうな、それでいて安堵しているかのような、崇史には理解の難しい表情を浮かべて、黎生に対してお辞儀を返すのだった。
「よろしくお願いいたします」
 黎生もリネアも顔を上げる。リネアは潤んだ目頭を押さえ、最後に「ごめんなさい、ありがとう」と呟いた。


   ◆ ◆ ◆


 真堂邸は正面階段の他、屋敷の両端にも階段がある。
 右端の階段は、一階と二階のあいだにいくつかの本棚とローズウッドのテーブルが置かれ、踊り場というよりも、ちょっとした書斎とも呼べる空間だった。大窓からは薔薇庭を望むことができて、昼間ならあたたかな日差しも感じられる、居心地の良い空間だ。
 崇史はカップを持ち、アールグレイを味わいつつ、向かいあわせに座っている黎生に告げた。
「惚れ直した」
「……そんなこと言ったって、なにもご褒美なんて、あげないよ」
 家着のブラウスに着替えた黎生は、ぷいと横を向く。照れ隠しなのは明らかだ。おなじような趣旨の言葉を舞花にも散々告げられて、いまさら、気恥ずかしくなっているらしい。
 拗ね顔の黎生もアールグレイを味わい、言葉は途切れた。会話など無くとも、黎生と過ごす時間の穏やかさは変わらない。むしろ崇史は静寂も好きだった。テーブルの下で、スリッパを脱いだ黎生の爪先が、戯れるように崇史の足に触れてくるのも良い。
 窓の外の夜空を眺め、いまごろリネアはどこを飛んでいるのだろうかと考えていると、黎生が口を開く。
「つい、生涯なんて言葉が、出ちゃったけど……俺の寿命なんて、ちっぽけだよね……」
「命には変わりないだろう」
 崇史は、目線を黎生に移す。
「長く生きていても、無駄に歳を重ねる者もいる」
 だから残された時間の長さなど問題ではないと言いたかった。
 黎生は「無駄かぁ……」と呟いて、カップを両手で持ち、両脚を軽くばたつかせた。ふたりきりでいるときは、年齢のわりに子どもっぽさを見せてくる、そんな黎生も崇史にはまた好ましい。
「崇史といれば毎日が楽しくて、きらきらするから、無駄な日なんて一日もないよ」
「……お前がいなくなった後も、俺はお前の想い出と生きるのだろう。それも無駄な余生ではない」
「幸せだね、俺達。出逢えたから、無駄な日なんて永遠に無いんだね……」
 黎生は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべてから、カップを置いた。
 そしてそれは、やや不安げな瞳に変わり、上目遣いになる。
「……あのね……俺が死んじゃったあとの話だけど、俺以外の男と、遊びならいいけど、本気は駄目だよっ……?」
「ふっ」
 崇史は微笑った。
「お前以外に忠誠を誓える者など、この世界にいるのだろうか」
 首を傾げ、前髪を掻きあげた。本心から思う疑問だ。
「跪いても良いと思える存在は黎生だけだ」
「崇史を飼えるのは、俺だけ……そうだよね……無理に決まってるよね、Sの大型犬なんて、だれも飼えないよね……」
「どのような好条件を示されても、飼われることはない」
「好条件って……ふふっ、たとえば、どんな条件なの?」
 崇史は目線をさまよわせ、考えてみる。
「飼育される檻は、湖のほとりにある古城を希望する」
「あははっ、まるで皇帝の待遇だね」
 席を立った黎生が、崇史の席に飛びこんできた。ふわりと漂う脆弱な甘い匂いはアルテミジア。崇史のつけているエンディミオンとは対になっているフレグランスだ。中学生のときに洋画家の家でふたつの瓶を見つけて、ペアでつけるようになった。
 黎生に擦り寄られ、崇史は薄笑み、キスを仕掛けた。
 この感情を知れて良かった。
 だから、この先になにがあろうとも……真っ白で小さな世界から連れだされて良かったのだと、崇史は心からそう思うのだった。