Night tale

 日付が変わるころ、静寂のなかで描くのは、夜と創作を愛する者に許された密やかな悦びだ。
 スケッチした街並みに色鉛筆で彩色していたが、気配に気づいて振りむく。アトリエにしている小部屋の扉をかすかに開き、こちらを見ているのはまだ幼い瞳だった。もうすぐ五年生になる大貴。春休みを利用して、ロンドンで暮らすリネアのところに遊びに来ている。
 すでに就寝したはずだが、目が覚めてしまったのだろう。
 リネアは鉛筆を置き、ストールを押さえ、大貴のそばに赴いた。
「もしかして、ずっとそこにいたの?」
「ううん、いま来たところっ……」
 首を横に振ってみせる大貴は、嘘を言っているようには見えない。
「そう」
 リネアはほっとする。なにかに集中していると、周りのことが目に入らない。そんな自分の性質にはとっくの昔に気づいている。
 崇史に似て学年の割には身体の成長が早くとも、まだリネアの鎖骨くらいの背丈にある、亜麻色の頭をさらさらと撫でてやった。
「目が覚めたんだね。一緒にアールグレイを飲もうか」
「いいの? おばあちゃんは、お絵かきしてたのにー……」
 申しわけなさそうに見上げてくる瞳は、リネアにとって、本当に愛らしいものだった。微笑みながら「いいのよ」と返す。
「大貴と過ごす時間のほうが大切だから。それに、今夜はそろそろ切りあげようと思っていたから」
 昔の自分が聞いたなら、驚くようなセリフだろうと我ながら思う。
 若いころにこんな言葉を言えたなら、想いを持てたなら、どんな未来に辿りついていたのだろう。崇史はどう育ったのだろう。
 この仕事ができる人間は自分しかいないと思っていた。だから懸命に打ちこんだ。実際は逆で、崇史の母親という存在こそ自分しかいなかった──銀座にはたくさんの店があり、たくさんの女がいるが、崇史の母親は世界にひとりだけだった。
 大貴とともに廊下を歩きながら──そんな人生を送っていたら、ひょっとしたら大貴が生まれていないかもしれないと気づき、考えるのをやめる。
 それに、いくら悔いたところで、終わったことは変えられない。
 リネアはミルクパンでお湯を沸かし、パジャマ姿の大貴は嬉しそうに、飛び乗るようにソファに座る。
 大貴はひとりで来たわけでなく、現在真堂家で執事を務めている、褐色の肌の美青年に連れられてきた。その執事はヒースロー空港で大貴をリネアに預けたあと、ピーターラビットの舞台として有名な湖水地方に行ってしまった。個人的に観光したかったので、と話していたが、リネアと大貴の邪魔をしないようにとの気遣いも感じられる。
 週末にはまた彼と合流し、大貴たちは帰国予定だ。
 お湯はすぐに沸き、そのお湯とアーマッドのアールグレイの茶葉を入れたポットとカップをテーブルに運んでいく。ついでに缶入りのクッキーも出すと、大貴は満面の笑顔を浮かべた。
「やったー!! 食べていいの?」
「もちろん」
 頷くリネアに、なぜか大貴は不安そうに眉根を寄せる。
「でもー……夜中に甘いもの食べちゃだめって、家政婦さんが……」
「ここはイギリスだし、私と大貴の秘密にすればいいの」
 孫に甘くしてしまうリネアだった。大貴は再び笑顔になる。
「……ひみつ……えへへっ、わーいっ、おばあちゃん、だいすき!」
 紅茶をカップに注ぐと、大貴は角砂糖をふたつ入れてから、ちゃんと両手を合わせた。
「いっただっきまーす!!」
 本当に美味しそうに顔をほころばせて、それでも品の良い所作で夜のティータイムを楽しむ大貴を見ていると、リネアは微笑ましさとともに切なくもなる。食べものを目にすれば獣のように貪りつき、表情も言葉もろくになかった崇史と比較してしまうからだ。
 罪の意識は永遠に消えない。
 大貴はカップを半分ほど空にしたところで、隣に座るリネアにもたれかかってきた。口に手を当ててあくびもする。
 そんな仕草も愛らしく、リネアは微笑む。
「眠いの?」
「うん、ちょっと……」
 何の気もなく、リネアは昔よく崇史にしていたように、背中から大貴を抱きしめた。
「またベッドに戻る?」
「えっとー……、それはぁー……」
 大貴はなにか言いたそうに、身体をもぞつかせる。
「……あのね、おばあちゃんっ……僕……」
 答えようとした瞬間、大貴は目を見開いた。そしてリネアが驚くほどの力でリネアを押しのけると、前かがみに蹲ってしまう。呻く声はいまにも泣きだしそうだ。
「──……! な……んで……? ヤだ……! どうして……?!」
 リネアに振り向く大貴の瞳は潤んでいた。あっという間に頬を真っ赤に染めて、勢いよく立ちあがり、逃げるようにリビングを出ていってしまう。思わずリネアも立ちあがる。
「大貴、どうしたの、ちょっと……!?」
 大貴はトイレに駆けこんだ。
 リネアは表情を深刻に歪めたあと、深くため息を吐く。そしてあの夜を思いだした。


   ◆ ◆ ◆
 

 その日、リネアは日本に滞在していた。大阪で昔の客の個展を観ていると連絡が入った。
 訃報だ。
 東京に向かい、ゴシック様式の鉄柵に囲まれた邸宅の前でタクシーを降りたリネアは、自分でも分かるほどに取り乱している。
 和服の肩に掛けたストールを掴む指先を震わせ、門扉を開けてくれた家政婦に詰め寄った。
「舞花さんはっ?! 崇史は?!」
 リネアより年上であろう彼女は泣き腫らした真っ赤な目で「薔薇園に」と答える。聞き間違えたのかと思ったが、それは真実らしかったので急ぐ。
「崇史!! 舞花さん──……!!」
 黄金色の月の光と、外灯の光の下で、崇史はリネアに振り向いた。
 仕事のときはセットして上げている前髪ははらりと落ち、リネアの愛していた男の面影も漂わせるその顔に影を落とす。はだけたワイシャツにスラックス。素足。そんな装いで芝生に腰を下ろし、背中から舞花を抱きしめている──
 繊細なレースとフリルのドレスに身を包んだ舞花は眠り姫のようで、年齢よりもずっと幼く見えて、少女の人形のようだ。巻かれた長い髪も美しい。
 崇史はリネアの姿を認識すると、何事もなかったかのように、また舞花に視線を戻す。
 髪を撫でている指先の優しさに、リネアの感情は決壊していった。
 恋愛感情のない結婚とはいえ、長い間、兄妹のように過ごしてきたのだ。彼らの永訣を前にしてリネアは涙をこぼしながら、その場に崩れ落ちてしまう。
 リネアのバッグには、舞花のおみやげに持ってきたフォートナム&メイソンの紅茶缶も入っている。大阪の予定を終えたら、ここに立ち寄って、舞花と過ごすはずだった……一足違いにもほどがある。
 日程が少し違ったら、こんなことにはならなかったのだろうか。
 それともいずれはおなじ結末を迎えたのか。
 近親交配を繰り返した一族が、心身共に脆さを孕むのは、歴史から見ても明らかだ。例えば欧州の貴族たち。黎生が生まれつきに多くの疾患を抱えていた理由もそう。近頃の舞花もずっと体調が悪く、精神的にも不安定だった。
 震えを止められずにいるリネアに、崇史はやっと呟く。
「よく保った」
「……えっ……?」
 リネアは顔を上げる。崇史はただ薔薇の繁みを眺めていた。
「運命の相手を亡くしても、十年も保ったのだ。もう十分だ……よく生きた……黎生の所に行けばいい」
 崇史は事の真相を語りはじめる。
「舞花は大貴に襲いかかった。見つけた家政婦の話によれば半狂乱で犯していたそうだ。黎生の面影に惹かれたのだろうな」
 なにを言っているのか、真堂の一族の特殊さを知っているリネアでも、理解しがたい。
「……そんな……そんな……舞花さんが……?」
「正気に戻ったとき、自ら命を絶ってしまった」
「そ、んな……」
 その後の言葉が、出てこない、呆然とするしかない。
 崇史は舞花の髪をまた指先で梳く。
「血に操られる宿命に抗ってみせたのだ。舞花は。近親に愛欲を抱く業よりも、母親としての想いが……勝ったのだ」
 リネアは動揺したままだったが、ハッと気づいて尋ねた。
「……だ、大貴は?」
「パニックを起こして泣いていたが、いまは薬が効いて寝ている」
 リネアは真堂邸の建物に振り向く。大貴の部屋は二階だったはずだが、確かに明かりはない。
 崇史はいつもと変わらない無表情で淡々と語り続けた。
「大貴の記憶を混濁させて、事実を歪めるべきかもしれん。出来れば、忘れさせてやりたいものだが」
「忘れさせるなんて……どうやって……」
「さらに大きなショックを与えれば、あるいは歪むか、それならば好都合だ──これを機に」
 崇史は不敵な笑みを浮かべた。
「完膚なきまでに大貴を調教してやる。前々から考えてはいたのだ。これから起こるであろう、年齢不相応の成熟も異変も、父親に悪戯されたせいだと錯覚すればいい」
 舞花の意向もあり、大貴は真堂家の業など教えられずに育てられている。だが、いずれは『目覚めてしまう』とリネアは心配していた。
「確かに……それなら大貴に一族の宿命というものを意識させずに済むかもしれない。大貴を普通の家の普通の子として育てたかった、舞花さんの願いも守れるのかもしれない。だけどね……」
 リネアは姿勢を正し、バッグから取りだしたハンカチで涙を拭く。
「一言でいうと──過激すぎる。穎一郎さんと話しているみたい。崇史、だんだん、穎一郎さんにも似てきてる気がする……」
「育ての父親だからな。そして俺も父親なのだ」
「父親か」と、リネアは呟いた。
「崇史の口からそんな言葉を聞けるのは、感慨深いけれど、さすがに私でも賛成できない……大貴はまだ、あなたを穎一郎さんに預けた歳よりもずっと幼いのに……」
「幼い? 性徴はもう始まっている……」
 崇史は舞花の手を握り、弄ぶように指を絡め、触れあう銀の指輪。
「すでに運命の相手とやらは見つけてしまった。幸い、相手は峰野という名家の令嬢だ。子を成しても真堂の血は薄まる」
 崇史は指を離すと、ふたたび舞花をぎゅっと強く抱きしめる。
「このままもっと薄まっていけばいい……こんな呪われた血はいらん……いらんのだ──……!」
 崇史の表情は髪に隠れて、リネアからは見えなくなった。
 ふたりで無言になる。静寂に包まれる。
 自分たちも無言でいれば、舞花が喋らないことの違和感も薄まるような気がした、なんの慰めにもならないけれど。
 黄金色の月の下、薔薇園、隣には崇史と崇史の腕に抱かれた眠り姫のような舞花。こんな夜はもう二度と無いのだと実感するとまた涙は滲んで伝っていく、それでも、到着したときのようにもう取り乱しはしない。背筋を伸ばして正座していると気持ちも落ち着いてきた。
 どれほど、そうして並んで座っていただろう。
 リネアは紅茶缶を取りだし、舞花に持たせた。一角獣の描かれたデザインは舞花によく似合う。
「後で一緒に飲みましょう、舞花さん。私は、あなたのことも本当の娘のように思えて可愛かった」
 微笑みかけてから、改めて崇史を見つめる。
「……大貴を血の呪いというものに触れさせないと、あなたたち夫婦が決めたことに、育てかたの方針に、私は口出しできない。ただ、崇史の選んだ道の先で、大貴があなたを憎むことになっても……たとえ世界中のすべてにあなたが誤解されたとしても、崇史は優しい子だって私は知ってることを忘れないで」
「子という歳ではない」
「いくつになっても私には子ども、間違いなく、私が産んだから」
「そうか」
 崇史は頷き、それから、しみじみと呟いた。
「母親というものは凄いのだな」
 リネアの視線の先で、崇史は舞花に語りかける。
「それならば一層、お前の想いも命も無駄にはしない。ずっと舞花は大貴の記憶のなかで、良い母親のままでいればいいのだ」


   ◆ ◆ ◆


 静かに紅茶を味わっていると、とぼとぼと大貴が戻ってきた。
 泣いて目を赤くして、鼻をすすり、覇気のない表情でソファの前に立つ。リネアは意識して何事もなかったかのように微笑んだ。カップを置き、ソファの座面をポンと叩く。
「おいで、大貴、ここに座って」
「…………」
 大貴は首を横に振る。いまにも泣きそうな表情で想いを絞りだす。
「おかしくなっちゃう……おばあちゃんのそばにいたい、さわってもらいたい、けど、近づくと、僕、いまみたいに……っ……」
 また溢れてしまう涙。大貴はごしごしと両手で瞼を拭う。
「僕はっ……おばあちゃんのこと、そんな目で見てないのに、身体はっ、ちがって、おかしくて……!」
「大丈夫だから。大貴は悪くないから」
 落ち着かせるように告げる。それでも大貴は訴え続けた。
「パパのせいなんだよ……! 僕にいろいろするから、僕の身体、ヘンになっちゃったんだよ……!! ヤだよぉおっ……!!」
 ついに顔を覆って、大貴はその場に座りこんでしまう。痛切な泣き声も続いた。
 大貴にとって崇史は劣悪な加虐者だ。
 躾と言う名の虐待と薬物投与で、大貴の幼児期の記憶は壊れ、事実と幻想が入り混じっている。
 舞花にされたことも、普段は忘れており、たまに思いだしても、崇史によって強引に交わされたと信じているようだ。
 本当にこれでよかったのだろうかと、首を傾げるリネアがいる。
 一族の抱える習性というものを素直に教えてしまったほうが、誰も苦しまなかったのではないか。しかし、その場合、舞花にされた記憶は明確なまま残っていたかもしれない。
 いまの大貴は、優しかった舞花のことしか覚えておらず、大貴を見ているとこの選択でも正しかったのかと思えてくるのも確かだった。
 それに結局、淫奔な血からはどうあがいても逃れられない。
 大貴は崇史に抱かれていなかったら、相手をあてがわれていなかったのなら、どうやって発散していたのだろう。
 歴代の子どもたちは、親の開く淫らな宴に参加したり、宴で知りあった相手と出かけたり、肉親で戯れて、自然に解消していたようだ。
 必ずおぞましいことになってしまうのなら、確かに、崇史によって相手も行為も把握管理されているほうが良いのかもしれない。
 唯一の救いは、代々、思春期の終わりとともに淫奔さも落ちつきをみせる。趣味嗜好は変わらないものの、狂ったように情交の相手を漁ることはなくなる──そうだ。
 あの夜の崇史は、こうも語った。
『出来る限り妙な道に外れぬよう、導いて管理してやらねばならん。欲に溺れて人生を破滅させる狂人の家系だからな……悪魔のような真堂の血を相手に、どれほどコントロールできるか分からんが、やってみるしかない……Sの冥利につきる大仕事といったところだ』
 リネアは瞼を閉じる。真実はいったん、置いておく。
 そう決めてまた眼を開く。
「酷いことをするパパね」
「うん……ひ、どい……パパのことはだいすきだけど、つ、らい……」
 大貴の嗚咽は止まらない。リネアは席を立つと、大貴のそばに座って指先を伸ばした。涙を拭いてやり、瞳をまっすぐに見つめる。
「なにもかも嫌になったら、ここに引っ越してきなさい」
 崇史に相談せず、そんなことを言っていいものか分からなかったし、暮らすとなればまた問題も起きてくるだろうが、目の前で泣いている大貴を放ってなどおけなかった。
「おばあちゃんとふたりで暮らそう?」
 大貴は鼻を鳴らすと、リネアにしがみついてきた。
 大貴から抱きしめてくれる。
「……おばあちゃんっ……、そんなことゆってくれて、うれしい……でも、でも、僕はヘン、だから、迷惑かけ……る……」
「迷惑なんか、感じるわけない、私はなにも思わない」
 リネアも抱きしめ返す。背中を擦ると、大貴はびくっと震える。
「あ……っ……! また……」
 それでも、大貴は逃げなかった。密接したままでいる。
 リネアに伝わってくる、大貴の鼓動の早さ。
 下腹部は明らかに熱を帯び、欲情していく。
「ど、どきどきしてるけど、気にしないで……」
「うん、気にしてない」
 リネアが微笑むと、ほっとしたように大貴も笑み、ねだってくる。
「それなら、ぎゅってして」
 こんなに淫らに反応しているのに、要求はあどけない。年齢よりも幼いくらいだ。身体と心が釣りあっていない。もちろんリネアは請われた通りにきつく抱きしめた。
 大貴は「なでてほしい……」と囁いてもくるから、リネアは亜麻色の髪を撫でる。
 抱擁を解いた大貴は頬を紅潮させつつ、瞳をきらきらと輝かせた。
「だいすき、おばあちゃん、ありがとう、気持ち悪がらないでくれて……!」
「気持ち悪いわけないでしょう。そんなこと自分で言わないの。大貴は本当に可愛くていい子」
 また髪を撫でてやる。大貴ははにかむ。
「多分、こんなに敏感になっちゃうのも……おばあちゃんのことが、だいすきだからだよ……あのね、さっきゆおうと思ったのはー……」
 言葉を切って、涙の跡をパジャマの袖で拭ってから、意を決したらしく告げる。
「いっ、いっしょに……寝てほしかったっ、添い寝してほしい……でもっ、もうすぐ五年生なのにおばあちゃんにこんなことゆったりするの、はずかしいし、ダメなのかなって……それにっ……頑張れば、ちゃんとひとりで寝れるもん……」
「頑張らなくていい、一緒に寝よう」
「……! おばあちゃん……!!」
 リネアの言葉に、大貴はまた満面の笑顔を見せてくれる。
 出来ればずっとそんな顔でいて欲しいけれど、宿命はきっとそうさせてくれないのだろう。
 だが、大貴は、舞花と崇史の息子だ。
 あなたならば乗り越えられる、リネアは心のなかでそっと呟く。
 そしてもう、崇史に対してのように、後悔したくない。いつでも大貴を支えてあげたいと思っている。
 窓の外で、黄金色の月は今宵も優しく輝いていた。